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橘耕斎(増田甲斎)の墓
プチャーチン一行の船でロシアに密航した日本人
橘耕斎(たちばなこうさい)は静岡県掛川藩士の次男として生まれる。一時、博徒をしていた時に逮捕投獄されるなど、よからぬ生活を送っていたようだ。その後、雲水となり伊豆・戸田村の蓮華寺に滞在中、ロシア使節プチャーチン一行に出会い、安政2(1855)年にロシアに密航した。プチャーチン一行の帰国は3回に分けて行われたが、橘耕斎は最終便で密航した。この船はイギリスに拿捕された。橘耕斎はイギリス抑留中にゴシケヴィチと共に日本語―ロシア語辞典を作成した。
サンクトペテルブルクに居住し、文久遣欧使節(正使・竹内保徳、1862年)、樺太国境画定交渉使節団(正使・小出秀実、1866年)、岩倉使節団(1873年)を接遇した。岩倉具視の説得により帰国。その後は特記すべき業績もなく、ロシア政府の年金で生活した。帰国後「増田甲斎」と改名している。
ロシア名:ウラジーミル・ヨシフォヴィチ・ヤマトフ
墓所:東京都港区高輪1-23-28 源昌寺
源昌寺に入って左側に墓地がある。墓地は上下2段になっているが、橘耕斎の墓は下の段の一番寺寄り中央付近にある。戒名しか書いていないので見落とすかもしれない。源昌寺入口には「増田甲斎の墓」の東京都の解説看板がある。
戒名 全生院明道義白居士 |
左端が橘耕斎の墓 | 墓石の側面・裏面 文字が刻まれている |
最終更新 2019.5
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