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竹内保徳(たけうちやすのり)の墓

文久遣欧使節正使

墓所:東京都新宿区愛住町21 養国寺


 竹内保徳(下野守)は旗本竹内富蔵の子で幕臣。箱館奉行、勘定奉行、外国奉行を務めた。文久遣欧使節正使として、イギリス・フランス・ロシア・オランダ・プロシア・ポルトガルに渡る。
 文久遣欧使節は、江戸・大坂の開市延期と新潟・兵庫の開港延期を交渉するために派遣された。幕府使節団は竹内保徳を正使、松平康直を副使、京極高朗を目付とする総勢36名(のちに2名加わる)で、英国軍艦オーディン号にてヨーロッパの締約国へと派遣された。使節団に与えられた主な役割は「開港・開市延期の確約」「ロシアと樺太境界の画定」「西洋事情の視察」だった。
 文久2年(1862年)5月、イギリスとの間に「ロンドン覚書」として、開港を五カ年間延期することを果たした。そののち、他の国とも同様な協定を結んだ。
 使節には、開港延期交渉の他に、ロシアとの間で樺太の国境を画定する任務が与えられていた。当初、日本は北緯50度線を樺太の日露国境とすることを主張した。しかし、当時すでにロシアの勢力は北緯50度よりも南下していたこと、日本の勢力は南部のアニワ湾周辺にとどまっていたことから、日本の主張は受け入れられることはなかった。しかし、日本の勢力が樺太南部に及んでいたことも事実なので、ロシアにも樺太全島がロシア領であるとする根拠はなく、さらに、はるばるロシアにまで来たことに対して好意を示すために、ロシアは北緯48度線をもって両国の国境とすることを提案してきた。これに対して、正使・竹内下野守保徳、副使・松平石見守康直は、調役勘定役徒目付以上の者を集め、ロシアの提案を受諾し国境を画定したい旨を伝えたが、目付・京極能登守高朗が日本の国土を失ってはならないと強硬に反対したため、国境合意はできなかった。このように、頑迷固陋な保守官僚だった京極高朗が状況判断を誤ると、それを修正することができずに、その後の樺太国境交渉に大きな禍根を残すことになった。

竹内保徳の墓
墓碑銘:官攻院殿智賢保徳大居士
墓には札がある




 養国寺は地下鉄新宿線曙橋駅に近いのだけれど、道が複雑で分かりにくい。曙橋駅A1出口を出たら靖国通りを通って暗坂(くらやみざか)を上る。上りきったところを左折すると、曹洞宗・全長寺がある。養国寺はその隣。曙橋駅A1出口を出たあと、南下したほうが近いかもしれないが、道が分かりにくい。
 養国寺は何やら怪しげな新興宗教のような雰囲気もあるが、れっきとした曹洞宗のお寺。堂の裏手には、最近できた墓石が並ぶ。ここには、怪しげな釈迦涅槃像がある。この下が古い墓地になっているので、左側の階段を下りる。下り切ったところをすぐに右折すると、右側に「竹内下野守」の墓がある。白い小さい札が立てられている。


養国寺 門
養国寺は曹洞宗の寺です
養国寺  なんとなく新興宗教のような雰囲気

本堂裏の墓地
真新しい墓が並ぶ
新興宗教の雰囲気がある釈迦涅槃像 本堂裏の墓地の左側階段を下ると古い墓地がある


暗坂(くらやみざか) 全長寺



最終更新 2019.8


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