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戸川安論(とがわやすとも)の墓  (戸川藤十郎)

 旗本、箱館奉行、松前奉行

 墓所:東京都品川区上大崎1-10-37 極善山 最上寺(浄土宗)

 18世紀終わりごろになると、ロシア人の北方諸島進出、クナシリメナシの騒動、蝦夷地周辺での外国船の出没など、幕府にとって放置できない状況が起こってくる。
 寛政10年(1798)年、目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方らに命じて、蝦夷地の警備ならびに経営についての本格的な調査に乗り出した。大河内政寿は東蝦夷地を巡回し、三橋成方は西蝦夷地を巡視した。また、このとき近藤重蔵らによるクナシリ、エトロフの踏査が行われている。調査結果に従って、幕府は東蝦夷地の直接統治を決定した。
 寛政10年(1798)年12月から翌年1月、書院番頭松平信濃守忠明、勘定奉行石川左近将監忠房、目付羽太庄左衛門正義、大河内善兵衛政寿、三橋藤右衛門成方の5人に東蝦夷地統治の任に当らせた。彼らの蝦夷地統治の方針は、商人によるアイヌ収奪を禁止し、仁政を行いアイヌを恭順させること、および、道路を開き交易を行い、アイヌに漁具を貸し勤勉を奨励すること、極貧者には衣類・住居の手当をし、病人があるときは官医をもって治療させ、和語を用い文字を教え、風俗改めを奨励することだった。また、外国船からの防衛は、南部・津軽の両藩に命じて要地に駐屯させ、特にエトロフ島は警戒を厳重にすることとした。
 1799年2月には、寄合村上三郎右衛門常福、西丸小姓組遠山金四郎景晋、西丸書院番組長坂忠七郎高景の3名も蝦夷地掛を命じられた。石川忠房と羽太正義は江戸で勤務し、松平忠明をはじめ他の者は蝦夷地に渡った。1800年、小納戸頭取格戸川藤十郎安論、小納戸大河内善十郎政良がクナシリまで蝦夷地を巡視し、翌年には松平忠明、石川忠房、羽太正養が蝦夷地を巡視し、蝦夷地経営方針が決定した。 1802年、蝦夷地経営方針が決定したので、幕府は蝦夷地御用掛を免じ、戸川安論と羽太正養の2人を蝦夷奉行(のち箱館奉行)に任じた。この年は両奉行共に江戸勤務だったが、翌年からは1年交代で箱館で勤務となり、1803年には戸川が、1804年には羽太が箱館で勤務した。
 1807年3月、東蝦夷地に加えて、西蝦夷地も幕府の直轄地となる。翌月、ロシア船が樺太を襲撃したとの報が箱館奉行にもたらされ、さらに5月にはエトロフ島が襲撃されたとの報がもたらされる。当時、箱館に勤務していた羽太正養は南部藩・津軽藩・秋田藩・庄内藩に増派あるいは臨時出兵を命じ、総勢3000人が箱館に到着した。
 同年10月、戸川安論に交代していた時、奉行所は福山に移転し、松前奉行と改名された。このとき、戸川、羽太に加え、河尻甚五郎春之、村垣定行も松前奉行となった。
 同年(1807年)11月、羽太正養はロシア船に襲撃された責めによって松前奉行を罷免され、荒尾但馬守成章がこれに代わった。翌年4月には、戸川安論も罷免されている。

参考文献:函館市史 通説編1 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 第3章 幕府直轄下の箱館 


 戸川家先祖の墓は品川区の浄土宗最上寺にある。ここは、もと増上寺の脇寺だったが、火災で焼失したため麻布狸穴に移転し、さらに寛文元年に今の場所に移転した。現在、周辺には最上寺を含め九カ寺がある。
 門を入って、右側に進むと、塀際に「戸川家先祖代々之墓」「故播磨守蓮庵戸川安清墓」が並んで立っている。戸川安清は戸川安論の息子。安清は書家として名高かった。

戸川家先祖代々之墓 戸川家先祖代々之墓と安清の墓が並んでいる 戸川安清の墓

付近は寺が多い 最上寺本堂 門の表札


 門を入って本堂よりの所に「畑六郎左衛門君碑」が建てられているが、寺の人に聞いたら、今では守る人もいないので撤去予定とのことだった。ただし、古いものなので捨てはせずに、どこかに移転予定とのこと。畑六郎左衛門は新田義貞家臣の畑時能のことで、この碑は子孫で戸川氏の家臣だった畑秀重が建立した。

畑六郎左衛門君碑

最終更新 2019.7


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