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新見正興(しんみまさおき)の墓  新見豊前守

 万延元年遣米使節正使

 墓所:東京都中野区上高田4-10-1 東護山 願正寺 (浄土真宗大谷派)


 万延元年遣米使節、すなわち、ハリスと結んだ日米修好通商条約の批准書を交換する目的で派遣された、総勢77名の大型使節団の正使を務める。 副使は村垣範正、目付は小栗忠順。新見が正使に抜擢されたのは、旗本の中で一番美男子だったからとの説がある。当時の写真を見ると、新見は実際に美男子であることは間違いない。
 この使節はアメリカ船ポーハタン号に乗船したものだったが、日本がオランダから購入した咸臨丸が随伴した。両船ともに、日米の船員が乗り組んでいたが、大洋航海の経験がない日本人船員は荒海では役に立たず、経験のあるアメリカ船員が航海を主導した。
 使節一行はパナマ地峡を汽車で渡り、別の船でワシントンに航海した。帰国は逆回りだったので、遣米使節は世界一周航海をしたことになった。なお、随伴船の咸臨丸はアメリカ西海岸までの航海で修理後帰国した。
 帰国後、目付・小栗忠順は横須賀造船所の建設など、米国で検分した知識を使って日本の近代化に尽力したが、新見がそのようなことをした記録はない。
 
 新見正興は新見正路の養子だった。旗本・新見正路の長男・次男は早逝し、三男の正典は幼少だったため、正路の弟・三浦義韶の次男・房次郎が新見正路の養子となり新見正興となった。新見正興は慶応2年44歳の時に隠居して、家督を新見正典に返した。3年後、明治2年に病没した。
 新見正興には3人の娘があった。長女は当時未開の北海道へ嫁ぎ、次女と三女は奥津家の養女となると、遊女として売られた。次女は吉原の顔役に身請けされた。三女の「りょう」は美人で評判が高かったので、女遊びの激しい伊藤博文と、大正天皇の伯父の柳原前光との間で落籍が競われ、柳原前光が身請けし妾となった。柳原前光と「りょう」の子が「白蓮」である。白蓮は15歳の時、精神障害があるといわれた公家と結婚させられるも20歳で離婚すると、25歳の時に、文盲で炭鉱夫だった金持ちの老人と再婚させられた。当時の新聞には、柳原家が金欲しさに娘を売ったと書かれた。白蓮はその後、駆け落ちした。

 新見正典は明治23年に56歳で死亡した。新見家の墓誌の2番目に書かれているのが新見正典。
 新見正典以降も新見家は続いているようだ。新見正興の娘は新見正典の姪にあたる。姪が遊女に売り飛ばされことに、正典がどれほど関与したのかは知らないが、どういう家系なのかなー。


 新見家の墓は東京中野区の願正寺にある。このあたり、寺が固まっている。
 本堂の左を通って奥に行くと墓地がある。新見家の墓は、墓地の比較的奥まったところ。大きな墓で、特徴的に3つの墓石が並んでいるので見つけやすい。

新見家の墓
3つ並ぶ左が新見正興の墓
右側は傷みが激しく字が読めない
新見正興の墓
正興院殿釈閑水遊翁大居士
墓誌
新見正典の名が刻まれている

願正寺 中野区教育委員会の看板




最終更新 2019.7


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