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池上本門寺の五重塔周辺には「力道山の墓」を示す表示がいくつかある。この表示に従って五重塔から進むと松平家の広い墓所に出る。この手前左側に岡本柳之介の墓がある。
岡本柳之介は朝鮮王后殺害者
岡本柳之介は明治の人で、戦後日本スポーツの裏社会癒着とは無関係。でも、曲がり角付近の目立つ位置にあるので、目印にすると分かりやすい。
日清戦争で勝利した日本は、朝鮮への内政介入を強めてゆく。これに対抗して、朝鮮はロシアの影響力を利用して日本を排除しようとした。日本公使三浦梧楼らは、親ロシア派の中心と目した王后(閔妃)殺害を計画し、日本軍守備隊、日本警察官、訓練隊(日本軍将校に指導された朝鮮軍隊)、日本人新聞記者、日本人壮士らを動員し、王后殺害を実行した。三浦梧楼以下暗殺集団は殺害した王后を裸にして女性器を検査し、最後に油を注ぎ焼き殺した。
朝鮮宮内府兼軍部顧問だった岡本柳之助は三浦梧楼と協力して王后(閔妃)殺害を主導した。
五重塔から「岡本柳之介」の墓に向かう少し手前の右側に児玉誉士夫の墓がある。二重の柵があって、墓石には近づけない。
児玉誉士夫は、元右翼テロリスト。戦後はフィクサー。
1932年、斎藤首相はじめ閣僚の暗殺や発電所破壊を計画するも発覚して、3年半の懲役刑を受けた(天行会・独立青年者事件)。服役後、笹川良一が結成した右翼団体・国粋大衆党に参加し、1938年には海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関を設立し、戦略物資の調達や謀略活動を行った。調達は非合法な略奪、強盗殺人によるものも多い。児玉の行為は憲兵により摘発されても、児玉のバックにいた大西瀧治郎中将のような大物軍人の力が働いた。
調達した大量の戦略物資は敗戦後手付かずのまま残った物も多く、自民党(前身)の結成資金としても使われ、これを機に自民党政治家と深い闇の関係をもつに至ったと言われている。
戦後は、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監。その後、政財界と右翼・暴力団との取りまとめ役を果たす。1959年に結成された右翼団体糾合組織・全日本愛国者団体会議の指導者の一人になり、その後も右翼・暴力団の取りまとめや、その指導者として君臨した。政財界との関係を深め、暴力団との関係をバックに「フィクサー」と呼ばれた。1960年の反安保闘争を阻止するため、自民党は暴力団や右翼を使ったが、このとき児玉は世話役としてヤクザや右翼のとりまとめに当たったと言われている。もっとも、闇の世界のことなので、確たることが明白になっているわけではない。
1976年に起こったロッキード事件では、米国企業の政界工作、内閣総理大臣への賄賂工作に主導的役割を果たした事が明らかにされ、世間の耳目を集めた。
児玉誉士夫の墓の左斜め後ろにある。
町井久之は暴力団・東声会、東亜会の創立者
町井久之は愚連隊・東声会の創立者。1963年、児玉誉士夫の取りもちで、三代目山口組組長田岡一雄の舎弟となる。翌年、東声会が警察庁により広域10大暴力団に指定されると、昭和41年に池上本門寺で解散式を行い、翌年には東亜友愛事業協同組合(のち、東亜友愛事業組合)を設立した。
右:町井家之墓 左:暴力団抗争で死亡した組員の慰霊像でしょうか |
死亡した東声会組員の名簿 | 死亡した東亜会組員の名簿 |
岡本柳之介墓の後ろにあり、道からは見つけにくい。五重塔からゆくと、児玉誉士夫墓の先、松平家墓所の手前、道の左側奥になる。
永田雅一は、映画プロデューサー、大映社長、プロ野球パリーグ初代総裁。
一時、児玉誉士夫が実質的オーナーの東スポ経営に当たっていたことがある。
太刀川恒夫は児玉誉士夫側近。東京スポーツ新聞社(東スポ)会長。博報堂コンサルタンツ取締役。ロッキード事件で逮捕・有罪となった
東スポはもともとプロレス記事、性風俗記事が多かった。
力道山の墓 | 力道山胸像 |
山門 | 仁王門 | 本堂 | 日蓮聖人御荼毘所に立つ多宝塔 |
最終更新 2022.7
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