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田沼意次(たぬまおきつぐ)の墓

 人気のない幕臣

 墓所:東京都豊島区駒込7-4-14 萬年山 勝林寺 (臨済宗 妙心寺派)

 田沼意次は、9代将軍家重の側衆、10代将軍家治の下では1767(明和4)年に側用入、1772(安永元)年には老中となり、権勢を掌握にした。
 彼は、困窮する旗本・御家人を救済するため、無利子で金を貸したり、給米を買い上げたりしたため、幕府の財政が圧追され、度々倹約令が出された。田沼以前の1764(明和元)年にはすでに倹約令は出されていたが、1771(明和8)年には向こう5年間の特別倹約令、1783(天明3)年には向こう7年間の節倹令を敷いて、支出の減少に努めた。この策は、農村の荒廃にもつながり、農業をやめた多くの都市流入民を出現させた。そのため多くの藩で藩政改革が実施され、その結果、商品作物の生産による財政再建が図られ、新しい特産地とそれに伴う流通網が形成された。
 このような新しい動きを受け、幕府はただ冥加・運上金を期待するのではなく、それらを統制するために株仲問の結成を公認した。
 意次の政策は、積極財政策であった。積極的な収入策による冥加・運上金の徴収や御用金の取り立てなどで賄賂政治が蔓延する一方、経済的合理主義に基づき,大胆な新政策も次々に企図された。蝦夷地開拓計画、新田開発と運河開削まで考えていた手賀沼・印旛沼の開発事業、ロシア交易の模索、貸付会所の設立など、積極的に新政策が実施された。
 1786(天明6)年、将軍家治の死去により、田沼意次は失脚すると、これらの新政策の多くは頓挫した。


田沼意次の墓
戒名:‎隆興院殿従四位侍従耆山良英大居士


 勝林寺は山手線・巣鴨駅から徒歩15分弱。駒込駅からも同じぐらい。京浜東北線上中里駅や王子駅からもいけるが、もう少し遠い。染井霊園の東側に当たる。
 墓地は本堂右側から入る。田沼の墓は墓地の右側にある。特徴的な墓姿なので、見つけやすい。


最終更新 2020.1


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