領土問題参考書
『領土問題から「国境画定問題」へ -紛争解決論の視点から考える尖閣・竹島・北方四島-』 名嘉憲夫/著 (2013/7) 明石選書
日本が、尖閣・竹島を領土を編入したのは、日清戦争と日露戦争の最中だった。軍事力に勝る帝国が、隠密裏に編入したものだったが、両者は、国境地帯にあって、国境画定交渉がなされていない島だった。
過去を振り返れば、江戸時代に、鬱陵島が日朝で係争になったときは、平和的交渉によって解決した。明治に、日清で琉球の帰属が係争になったときは、交渉で解決しようとしたが妥結せずに、日清戦争に突入、その結果、台湾と共に日本領であることが確定した。
日本の領土問題である、北方領土・竹島・尖閣を、日本では、これらを固有の領土であると主張しているが、著者は、過去に平和裏に解決したときのように、国境画定問題として対処すべきと説いている。
文献の引用箇所の情報が詳しく、領土問題を研究する上で、便利な本。
「固有の領土か」「国境画定か」との問題に関連して、興味が持てた記述を紹介する。
「当時の国際法によれば」という言葉を連発する人々の言う「国際法」とは、実際には19世紀の"文明国とされたヨーロッパの国の間でのルール"であり、"半文明国"や"野蛮国"とされた多くのアジアやアフリカ、オセアニアの国々には適用されないものであった。それは、ドイツのビスマルクが明治の遣欧使節に言ったとされる「ヨーロッパの国々は、自分たちに都合のいいときには国際法を持ち出し、そうでないときは武力を用いる」ことを正当化するようなものであった。 17世紀の幕府と朝鮮国は、欝陵島と松島の問題に関して、19世紀の西欧国家よりもずっと誠実で外交の基本を抑えた対応をしているといえる。
以上をまとめると次のように言えるのではないだろうか。近世初頭の17世紀における日本の「領域」は、本州、四国、九州、北海道の一部で構成され、蝦夷や琉球は、朝鮮とともに「異国」であった。しかしながら、この日本型華夷秩序も中華型華夷秩序と同じで、支配者同士の身分的な臣従関係が基本であり、そうした臣従関係の及ぶ範囲が国同士の境界も作った。実際に物理的な周辺地のどこまでが「国境」かについては曖昧な面もあった。"地球上のすべての地表と河川・海域を国境線で区切る"という考えは、近代に出てきた発想である。
蝦夷と琉球は、経済的にも文化的にも次第に「日本国」との関係を強めていき、その性格も幕末につれて変化していくのであるが、それでも近世初期に成立した幕府-松前藩-蝦夷地、幕府-薩摩-琉球という封建的な法的関係の基本的枠組みは維持されていた。この状態が、明治維新まで続いたのである。(P73)
国際法学者の松井芳郎は、現在の尖閣問題の淵源を19世紀におけるヨーロッパ的国際秩序と異質の国際秩序である東アジア中華帝国秩序の齟齬に求める。松井によれば、中華帝国が支配する地域は、ヨーロッパ的国際秩序の意味における「領域」ではなく、「版図」であったという。「領域」は明確な境界"国境を持ち、その内側で政府による実効支配が行なわれるが、「版図」は皇帝の統治の恩恵に浴する者や集団が住む空間であり、明確な境界を持たない。日本政府が先占によって尖閣諸島を領有したと主張するとき、それはヨーロッパ的国際秩序の「領域」観を前提にして、そこがどの国の実効支配も及ばない「無主地」であったとの理解に立っている。一方、中国政府は、当時尖閣諸島はすでに中国領だったのであるから先占を言う必要もないと主張する。その根拠として、近世を通じて中国から琉球王国に派遣された冊封使節が尖閣諸島を航路標識としたこと、明の時代に倭冠に対して設けられた沿岸防衛区域に尖閣諸島が含まれていたこと、中国漁民が荒天時に避難場所として利用したことなどを挙げる。このような事実は、ヨーロッパ的国際秩序における実効支配には当たらないが、華夷秩序において尖閣諸島が中国の「版図」であったという理解を正当化することはできる。尖閣紛争は、こういった意味で「国際秩序観」の衝突でもあるという。(P94)
注)参考文献:松井芳郎「国際法から世界を見る」(東信堂 2001) pp15,16
古代の律令国家の成立時と同じように、もし1868年を近代日本国家の成立時と考えるならば、この時点での日本国の国境が近代日本の"元々の国境"ということになる。"元々の国境"があれば、その内側が"元々の領土"であろう。もし「近代日本国家の固有の領土」という言葉を使いたいのであれば、1868年時点での領土がそうであるということになろう。(P104)
芹田(芹田健太郎)は、国際法上「先占」が有効になるのは、国家が領有の意思を持って実効的支配をする場合であるとする。芹田によると、領有意思は、当該地域を国家の版図に編入する旨の宣言、立法または行政上の措置、他国への通告によって示される。通告はなされていなくとも、それ以外の手段で領有意思が表明されておれば十分であるとする。ところが、芹田は、「尖閣諸島の領域編入は、日本のその他の島嶼の領域編入の際に用いられた「通告」とか、「告示」とかの形式……がとられておらず、また標杭が建てられた事実も確認されていないので、不正規なものである」とする批判には反対する。相手国との関係で、「編入手続き」がどれだけ"適切か"、少なくとも紛争を引き起こさない程度に適切であったかの議論をしているはずが、芹田はそれには答えないで、いきなり占拠後の「実効支配」の論理を持ち出す。そして「尖閣諸島に対する日本の実効支配は明らかであるが、そのほとんどは日本が台湾の割譲を受けた後の台湾統治時代のものである」と指摘する。そのように述べたすぐ後で「そのため、中国からの抗議はないものの、無主地先占をした島嶼に対する支配なのか、割譲された地域に含まれる島嶼に対する支配なのか、必ずしも分明にすることができないかもしれない」と述べている。こうした議論には首を傾げざるをえない。(P182)