閔妃暗殺は辞書などにどのように書かれているか



 日清戦争で勝利した日本は、朝鮮への内政介入を強めてゆく。これに対抗して、朝鮮はロシアの影響力を利用して日本を排除しようとした。日本公使三浦梧楼らは、親ロシア派の中心と目した王妃(閔妃)殺害を計画し、日本軍守備隊、日本警察官、訓練隊(日本軍将校に指導された朝鮮軍隊)、日本人新聞記者、日本人壮士らを動員し、王妃殺害を実行した。
 
 ここでは、「日本外交史辞典」「国際政治辞典」「日本史辞典」「百科事典」「文部科学省検定済教科書」などに、閔妃殺害事件がどのように書かれているのかを示す。


日本外交史辞典 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会/編 (1992/5)山川出版社

閔妃事件
 1895年(明治28)10月8日、朝鮮高宗皇后閔妃(1851〜95年)が殺害された事件。「乙未の変」とも呼ばれる。95年9月1日、三浦梧楼中将(予備役)が井上馨公使に代って駐朝鮮公使として赴任した。当時朝鮮国においてロシアと結ぶ閔妃一族の勢力が強くなり、日本軍将校の指導した訓練隊(政府直属の軍隊)を解散してアメリカ人教官指導の侍衛隊(王室直属)をこれに代えて親日勢力を一掃しようとする動きがみられた。10月3日、三浦公使は、杉村溶書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼宮内府顧問官らと協議して・閔妃の政敵で京城郊外孔徳里に蟄居する大院君を擁して閔妃を倒し親日政権樹立を計画した。10月7日、朝鮮国政府から「訓練隊解散決定と8日武装解除」の通告を受けるや、8日早朝、上記計画を決行した。訓練隊、日本軍守備隊、日本警察官、日本人新聞記者・壮士らを動員・大院君を擁して景福宮に入り、王宮護衛の侍衛隊を撃破し、閔妃を殺害、その死体を火葬にした。その際、李耕植宮内大臣、洪啓薫訓練隊大隊長および侍衛隊兵士1名が殺害された。大院君と高宗と対面の席に三浦公使が招かれ、親露派閣僚を解任し、金宏集内閣を親日派でかためた。高宗は10日、王后閔氏を廃して庶人とする詔を出したが、11日改めて閔妃に諡号をおくった。10日、日本政府は実情調査のため小村寿太郎外務省政務局長を京城に派遣、17日三浦公使に帰朝命令が出、小村局長が駐韓公使に任ぜられた。その後、事件に関与した日本人民間人は退韓を命ぜられ、杉村書記官、楠瀬守備隊長らにも帰朝命令が出、仁川から宇品に向け帰国させ、軍人は軍法会議に、三浦公使(10月24日免官)以下49名は謀殺罪および凶徒嘯聚罪で起訴され、広島監獄未決に収監された。王室慰問を兼ねて事件に日本人関与に遺憾の意を表するため、特派大使として井上前公使が10月31日〜11月15日京城に派遣された。高宗は12月1日、閔妃の死を公表。朝鮮国政府は11月26日、事件に関与した当時の訓練隊大隊長李周会ほか2名を逮捕し、12月28日高等裁判所で3名に死刑宣告、1月に処刑、12月23日、16名を逮捕し流罪とした。日本側では事件関係の軍人は、軍法会議で全員無罪、その他三浦梧楼以下49名は96年1月20日、広島地方裁判所予審で証拠不十分として全員免訴になった。事件の翌年2月11日高宗は王世子とともにロシア公使館内に移り、金宏集内閣が打倒され親露派内閣に変った。97年に入って閔妃に明成皇后の諡号あり、11月21日その国葬が行われた。/森田芳夫
◎日本外交文書(明28-1)
◎伊藤博文編、秘書類纂朝鮮交渉資料、中、1961
◎政教社、観樹将軍回顧録、1961
◎菊池謙譲、朝鮮雑記1、1931
◎外務省、小村外交史、上、1953
◎角田房子、閔妃暗殺、1988
◎山辺健太郎、乙未の変について(国際政治22)
◎森島守人、閔妃の最後−朝鮮秘話(世界、1951/1)



国際政治辞典 猪口孝・他/編 (2005/12)東京弘文堂
閔妃暗殺
 事件の勃発した1895年の干支から、乙未事変とも言う。1894年、日本軍が首都を制圧する状況の中・金弘集等・穏健開化派による政権が発足、日本による影響を強く受けた「内政改革」が実施された。朝鮮における最初の本格的な近代化政策とされる、甲午改革である。しかしながら、この改革が明らかな日本の干渉の下、行われたことは、結果として王朝内外に強い反発を呼ぶこととなった。1895年に日清戦争が終結、その直後に行われた三国干渉に日本が屈服したことは、朝鮮国王・高宗をして次第にロシアの影響力を利用して日本を排除する「引俄拒倭」政策へと導くことになり、7月には王朝内にて親日勢力を代表した朴泳孝が失脚する。9月、新たに日本公使として赴任した三浦梧楼は、このような状況の中、当時の日本政府が親露派の中心と目した高宗の正妻、閔妃の殺害へと踏み切った。10月8日、朝鮮王朝宮内府顧問岡本柳之助率いる日本居留民行動隊は、解散問題が持ち上がっていた朝鮮王朝軍・訓練隊の一部と共に景福宮に乱入、閔妃の他に宮内大臣李耕植等をも殺害した。実際の事件の在り方は、暗殺というよりは、虐殺に近い。三浦等は後に国内で裁判にかけられるものの、無罪として全員釈放されている。この事件により、高宗が自らと家族の身辺への不安を増大させたことは、翌年2月の露館播遷の大きな原因となっている。◎木村幹
【関連項目】三国干渉、高宗
【主要文献】姜在彦『朝鮮近代史』平凡社、1987




講談社 日本全史 宇野俊一・他/編  (1991/03)講談社

三浦公使ら、朝鮮でクーデター大院君を擁し、王妃閔妃を殺害
  10月8日 朝鮮駐韓公使三浦梧楼(50)が、公使館書記官杉村溶(48)、朝鮮宮内府と軍部の顧問岡本柳之助(44)、漢城新報社長安達謙蔵(32)らと共謀し、朝鮮国王の実父、大院君(76)を擁してクーデターを強行した。岡本らは壮士や日本軍守備隊とともに朝鮮王宮に侵入、反日的な姿勢を示していた王妃閔妃(45)を惨殺し、死体を前庭に引き出して焼き捨てた。
 三国干渉によって、朝鮮政府への影響力が低下していた日本は、軍事力を背景として強圧的に押し進めてきた干渉政策を改め、対朝鮮政策の転換をはかろうとした。一時帰国していた駐韓公使井上馨(61)は、政府と協議して300万円の対朝鮮借款の条件を緩和し、鉄道・電信の建設を朝鮮政府に有利にとりはからうことにしたが、朝鮮王室や政府は、それと逆行するようにロシアへの接近を強めていた。
 井上に代わって三浦梧楼が駐韓公使に任命されると、朝鮮王室はそれを日本の後退と受け取って親露派の大臣を任命し、王宮警備を日本軍人指導の訓練隊からアメリカ人教官が育成した侍衛隊に変え、日本離れを明確にした。この日の事件は、そうした状況に焦った三浦公使が大院君を擁して、反日的な閔妃を殺害し、親日的な金弘集政権の成立をもくろんだクーデターだった。(P969)




角川 日本史辞典 朝尾直弘・他/編  (1997/08)角川書店

閔妃暗殺事件
 乙未変とも。日本公使指揮下の日本兵などが、朝鮮国王妃閔妃を殺害した事件。親清派の閔一族は、三国干渉後親露政策をとり、1895、7月親日勢力を追放して政権を奪回。同年10月8日、日本公使三浦梧楼指揮のもとに壮士・警官・日本軍隊が大院君を擁し、親日将校の率いる朝鮮軍隊とともに王宮に乱入。閔妃を惨殺し親露派を一掃、大院君を中心に親日内閣を結成。事件は列国の非難をうけ、日本政府は公使ら事件当事者を拘禁。のち事件関係者は無罪。




岩波 日本史辞典 永原慶二/監修 石上英一・他/編 (1999/10)岩波書店

閔妃殺害事件
 1895年10月に朝鮮国王高宗の妃閔妃が、日本公使三浦梧楼(1846-1926)指揮の日本軍人らに殺害された事件。乙未の変ともいう。4月の三国干渉以来、朝鮮で親露派勢力が増したのに対して、9月に赴任した三浦公使は日本の勢力挽回のため、親露派の中心である王后の暗殺を計画。10月7日夜から8日未明にかけて日本軍・大陸浪人らが景福宮に侵入、王后を寝室に襲って殺害し、その死体を焼払った。事件を起こした三浦公使や日本軍人は軍法会議に付されたが、<証拠不十分>として全員無罪とされた。




朝倉 日本史事典 普及版 藤野保/編集代表  (2012/5)朝倉書店

閔妃殺害事件
  朝鮮国王(皇帝と改称)高宗皇后閔妃が、明治28年(1895)10月8日に日本公使三浦梧楼の指揮下の日本人壮士らに殺害された事件。韓国では乙未の変と称する。日清戦争中からの朝鮮官野の反日機運は三国干渉により増大した。朝鮮が自立を貫く道はロシアを操縦して、強大な日本の圧力に抗するほかなく、それが中心となり、実行した閔妃に翻弄された予備役陸軍中将の三浦は、閔妃を親露反日の中心とみて、大院君を日本の傀儡とする目的で邪魔な閔妃の暗殺を謀り、日本軍とその指揮下の朝鮮訓練隊および日本警官・浪人が侍衛隊を撃破、景福宮に侵入、閔妃を惨殺した。これは外国人も目撃しており、ソウル市内は騒然となるが、日本は実行者を罰しえなかった。(藤村遭生)




学研 グランド現代百科事典 25 (1982年)

閔妃事件
 朝鮮の王妃閔氏が,1895年,親日派の勢力挽回を図った日本公使の企図により殺害された事件。乙未の変。閔妃暗殺事件。
 日清戦争中、日本は軍事力を背景に朝鮮政府内に影響力を強化していたが、三国干渉で遼東半島を還付したことでその威信は低下した。朝鮮政府内の閔妃派は、ロシアと結んで、開化派(いわゆる親日派)の排除を図り,95年7月には朴泳考らを政府から追放、また日本人が訓練した軍隊も解散させた。
 これに焦った日本公使三浦梧楼は、閔妃の政敵大院君を擁してのクーデターを計画。10月7日夜から翌早朝にかけて、大院君をおしたてた日本守備隊と大陸浪人の一団は、王宮に乱入して関妃を殺害し死体を焼き捨てるという暴挙を働いた。その結果、大院君の下で親日派政権が組織され、甲午改革の継続を図ったが、十分な独自性を持ちえず、一方各地には国母(王妃)復仇の義兵運動などの反日運動が起こった。
 事件の報告を受けた日本政府は驚き、三浦公使を召還、小村寿太郎をその後任とし、さらに各国に対し、朝鮮内政への無干渉を声明し、元老井上馨を派遣して善後処理に当たらせた。ロシアの勢力は一層浸透し、翌年二月には国王がロシア公使館内に移るに至って、日本の朝鮮政府への影響力は決定的に後退した。
 96年1月、広島地方裁判所は、証拠不十分として三浦梧楼ら全員の免訴を決定した。
/山辺健太郎著『日本の韓国併合」(太平出版社1964)(宇野俊一・楠原利治)




小学館 日本大百科全書 2  (1985年2月)

乙未事変
 閔妃虐殺事件ともいう。一八九五年(乙未)一〇月八日未明、駐韓公使三浦梧楼指揮の下に日本官憲と大陸浪人らがソウルの景福宮に乱入し、反日派の中心と目された高宗の妃閔妃を殺害した事件。日清戦争後、日本は軍事力を背景に朝鮮の支配を強化し、経済的利益を独占しようとした。しかし朝鮮政府内でも、これに抵抗し、三国干渉などで公然と日本に対立してきたロシアと結んで、日本の侵略を阻止しようとする動向が表面化してきた。そこで事態を一挙に打開しようと閔妃を虐殺した。しかし、かえって朝鮮人の民族闘争を激化させ、国際的な非難を浴びた。日本は関係者を召還し、裁判にかけたが、全員証拠不十分のため無罪として釈放した。〈宮田筋子)




平凡社 世界大百科事典 24 (2007年9月 改定新版)

閔妃虐殺事件
 1895年、日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された事件。三国干渉を契機として復活した閔氏政権の排日政策に対抗して勢力挽回を図った三浦は、10月8日早朝、ソウル駐在の日本守備隊および岡本柳之助、安達謙蔵ら日本人壮士のグループに命じて景福宮を襲撃させた。宮殿内に乱入した彼らは閔妃を斬殺して奥庭にひきずり出し、死体を凌辱したうえ石油をかけて焼き払い、これと同時に、大院君をかつぎ出して金弘集を首班とする親日開化派政権を成立させた。三浦は朝鮮軍隊の内紛を装ったが、王宮の内部にいた外国人の目撃などから国際的な非難をあびた。そこで日本政府は、三浦以下48名を召喚して形ばかりの裁判を行い、翌年1月、証拠不十分として全員を免訴・釈放した。日本のこのような蛮行に対して、朝鮮各地で反日義兵闘争がまきおこった。

日本書籍新社 わたしたちの中学社会 (中学校社会科教科書)
  平成17年3月30日 文部科学省検定済 平成18年1月25日 発行

朝鮮では、日本公使らが朝鮮の皇后を暗殺したが、日本よりの政権をつくることには失敗した。(P159)



山川出版社 詳説日本史 B (高等学校日本史教科書)
  2012年3月27日 文部科学省検定済 2013年3月5日 発行
日清戦争開戦の直接のきっかけとなった日本軍の王宮占拠で成立した大院君の親日政権は、三国干渉後、まもなく閔妃らの親露派に倒された。日本の公使三浦梧楼は大院君を再び擁立しようと公使館守備兵に王宮を占拠させ、閔妃殺害事件をおこした。王妃を殺害された国王高宗はロシア公館に逃れ、親露政権が成立した。(p294)




山川出版社 新詳説日本史 教授資料 (いわゆる教師用教科書)
  1992年4月10日発行

ロシアの南下策 1891年、ウラジヴォストークからシベリア鉄道建設に着手したロシアは、満韓進出に強い意欲を見せた。1895(明治28)年10月、日本が朝鮮公使三浦梧楼の指揮のもとに閔妃を暗殺し、大院君政府をつくらせると、翌年2月、高宗はロシア公使館ね逃れ(露館播遷)、これにより親露政権ができることになった。(P532)




NHK通信高校講座日本史(監修:お茶の水女子大学大学院教授・小風秀雅)
  http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume032.html (2015.7.10閲覧)

 日清戦争後の下関条約によって、清は朝鮮の自主独立を認めていました。
 その後、三国干渉により朝鮮半島での日本の勢力は後退します。そして朝鮮の親日派政権は倒され、ロシア寄りの政権が誕生します。
 1895年、日本の公使や軍人が朝鮮の王宮を襲い、王の妃でロシア寄りの勢力の中心だった閔妃(みんぴ)を殺害するという事件が起こります。この結果、反日の世論が朝鮮で強まり、さらにロシアとの軋轢も高まっていきました。




詳説世界史研究(山川出版社)
 2008年1月30日発行

 高等学校世界史教科書には閔妃殺害事件が掲載されていないことが多い。ただし、学習参考書・詳説世界史研究には閔妃の説明の中に暗殺の事実が記載されている。

 朝鮮王朝第26第王高宗の妃であった閔妃は、1873年に実力者大院君を失脚させて政権を奪取してより、再起を策す大院君や圧力を増す外国勢力を相手に、20年にわたってしたたかに戦いつづけた。閔妃は国内の反対勢力に過酷な弾圧を加える一方、対外的には、日本→清国→ロシアと提携の相手をつぎつぎにかえて朝鮮の存立をはかったが、最後は日本公使の策謀により、王宮に乱入した日本人によって暗殺された。(P420)



以下、2冊の著書は、事件の数年後に出版され、閔妃殺害は日本の蛮行であることが広くヨーロッパ社会に知られた。


イザベラ・バード 朝鮮紀行 時岡敬子/訳 講談社(1998.8)  : 平凡社・東洋文庫からも訳本が出版されている。

 イザベラ・バードはイギリス人女性旅行家、紀行作家。19世紀末に日本や朝鮮を旅行し旅行記を執筆した。王妃が殺される数ヶ月前に、王宮に招待され、王妃・国王・皇太子と会談している。原書は、1898年にロンドンで出版された。
  Mrs. Bishop(Isabella L. Bird) Korea & Her Neighbours: a narrative of travel, with an account of the recent vicissitudes and present position of the country

 三浦は…ふたりの日本人に…宮中に入ったら王妃を殺害せよとそそのかした。(P353)
 訓練隊は四方八方から王宮内になだれこんだ。それとともに抜刀した日本の民間人は王妃はどこかと必死の形相で叫びながら、側室の髪をつかまえて引きまわし、王妃の居場所を言えと強要した。…皇太子は自分の母親が剣を持った日本人に追いかけられて廊下を駆け逃げるのを見た。…暗殺団から逃げ出した王妃は追いつかれてよろめき、絶命したかのように倒れた。…そのとき…王妃が絶命していたかどうかはなはだ疑問である。それなのに日本人暴徒は王妃を板の上に載せ…灯油をそそいで焼いた。…愛すべきところの多かった朝鮮王妃は、近しい一国の公使から卑劣な行為をそそのかされた外国人暗殺団の手により、四四歳で命を落としてしまったのである。(P354〜P356)

 一一月になっても…国王は…毒殺をはじめとする暗殺の恐怖に寸時もおかずさらされ、みずからの王宮にいながら囚人さながらの状態だった。…外国公使たちは国王の生存を確認し、かつ同情の意を示して力づけるという二重の目的で、交代し合って国王を訪ねた。食べ物はロシアと合衆国の両公使館から鍵をかけた箱に入れて届けられたが、国王の監視があまりにも密なため鍵を渡すのがむずかしく、しかも国王が唯一頼りにしている外国人にことばを伝えるには、監視のすきを見つけて小声で口早に話すしかなかった。最初から国王がイギリス公使館かロシア公使館に脱出することを望んでいたのは疑いない。(P362,P363)




ゲ・デ・チャガイ/編 朝鮮旅行記 井上紘一/訳 平凡社・東洋文庫(1992.3)

 参謀本部 カルネイェフ大佐、ミハイロフ中尉 『一八九五−一八九六年の南朝鮮旅行』(初出は1901年サンクト・ペテルブルグ

  日本人は、極めて陰険な悪事すら、怯むことなく敢行したわけだが、われわれのソウル滞在中は、その詳細がまだ最終的には解明されなかった。一つのことだけは確かである。即ち、虐殺は一八九五年一一月二五日から二六日にかけての深夜に、完全に日本人のみが、以下のような状況の下で実行したのである。…
 国王は前の農商務相李範晋に米国とロシアの公使館へ駆け込み、救援を求めるよう命令した。…李範晋がロシア帝国公使館に駆け込むや、彼は僅かな語彙を駆使して次のように訴えた。日本人が宮中において、恐らくは王妃の殺害を目指して、虐殺を重ねており、国王はロシアと米国の代表が救援に駆付けてくれることを切望している、と。…
 午前四時過ぎ、正門の外に待機していた朝鮮兵が怒濤のごとく乱入した。一方、北門を押し破って侵入した日本軍や朝鮮軍の兵士らは、…門を開放して、王宮の北の部分を占拠した。王宮の中央部は日本人将校指揮下の朝鮮兵部隊が陣取り、国王の居闘では、庭園に出る扉と宮殿の内部に通じる扉のそれぞれに、日本兵が二名ずつ立哨していた。王妃の離れが所在する中庭は、平服に軍刀を帯びた日本人で充満していた。彼らの何人かは、抜き身の刀を手にしていた。この群団の指揮者もやはり、長い短剣を帯びる日本人だった。彼らは城声を上げつつ中庭を走り回って、王妃の所在を聞き出せると判断される人々を捕まえては打榔するも、誰一人として彼らの求める情報を与えた者はいなかった。…しかし、哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって、彼女が廊下へ逃げだすと、一人の日本人が脱兎のごとくその後を追い、王妃を捕まえるや床に投げ出して、彼女の胸に足を載せて三回ほど踏みつけたあげく、刺し殺した。しぼらく経って、日本人らは殺害した王妃を近くの林へ運び出し、灯油を振り撒いた上に火を放って焼却した。一八九五年一一月二六日の流血劇は、こうして幕を閉じた。恥じ知らずという点では、歴史上に前例のない出来事が起きたのである。異国の人々が平時に、かの国の軍隊の庇護下に、はたまたその指揮下に、そして、恐らくは外交使節さえも関与の上で王宮内へ大挙して闊入し、王妃を殺害して、その遣骸を焼き払い、卑劣なる殺人や暴行の限りを尽くしたあげくの果てには、この上なく恥じ知らずな遣り口で、衆目の注視する中で遂行されたことを(彼らが犯罪の実行直後にほとんどいつも行なっていたように)敢えて否定したような事例が、かつてあったであろうか。(P219〜P222) 
 注意)日付はロシア暦で書かれている


 1908年、カナダ生まれの英国ジャーナリストF・A・マッケンジーは『The Tragedy of Korea』を出版し、朝鮮の置かれた現状を報告した。この本は、1972年、平凡社・東洋文庫から『朝鮮の悲劇 渡辺学/訳』として、出版されている。
 本書『第5章 閔妃謀殺』で事件の経緯が詳しく説明され、日本公使三浦梧楼を主犯とする日本人らの犯行であることが明らかにされている。また『第6章 閔妃謀殺のあと』では、事件が世界に知れ渡った経緯と、日本が事件を隠蔽しようとしたことが記されている。なお、日本語訳本では第5,6章合わせて23ページ。


陰門検査

 平凡社 世界大百科事典では、閔妃の死体を凌辱したとしている。末松法制局長官宛石塚英蔵書簡によると、王宮に押し入った日本人らは閔妃を切りつけた後、裸にして局部検査をしたので、百科事典の陵辱とは、このことを言っているのだろう。

 末松法制局長官宛石塚英蔵書簡の現物は憲政資料館に所蔵されている(ここに目録がある)。
 昭和40年12月3日、黒柳明議員(公明党)は、参議院日韓条約等特別委員会質問のなかで、この書簡を紹介した。

 此荒仕事之実行者ハ訓練隊ノ外守備兵ノ後援アリ尚ホ守備兵ノ外ニ日本人二十名弱アリ熊本人多数ヲ占ム中ニ新聞記者数名又医師商人モアリ随テ洋装和装相混セリ岡本ハ大院君ト同時入城シ実行ノ任ニ当レリ守備隊ノ将校兵卒ハ四門警衛ニ止マラス門内ニ侵入セリ殊ニ弥次馬連ハ深ク内部ニ入込ミ王妃ヲ引キ出シ二三ケ処刃傷ニ及ビ且ツ裸体トシ局部検査ヲ為シ最後ニ油ヲ注キ焼失セル等誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ其他宮内大臣ハ頗ル惨酷ナル方法ヲ以テ殺害シタリト云フ右ハ士官モ手伝ヘタルトモ主トシテ兵士外日本人の所為ニ係ルモノ、如シ大凡三時間余ヲ費シテ右の荒仕事ヲ了シタル後右日本人ハ短銃又ハ刀剣ヲ手ニシ徐々トシテ光化門ヲ出テ群集ノ中ヲ通リ抜ケタリ時已ニ八時過ニテ王城前ノ広小路ハ人ヲ以テ充塞セリ     (出典:国会会議録検索システム)

明治天皇の感想

殺害首謀者の三浦梧楼の回顧録によれば、明治天皇・睦仁は三浦による王妃暗殺を称賛していたようである。
東京に着いた其晩、早速米田侍従が訪ねて来た。我輩は先づ、
 「お上には大変ご心配遊ばしたことであろう。誠に相済まぬことであった。」
と挨拶すると、
 「イヤお上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云ふお言葉であった。」
と答へ、更に、
 「今夜お訪ねしたのは、外でもない。実はアレが煮ても焼いても食えぬ大院君を、ベトベトにして使って行ったが、コレには何か特約でもあったことか、ソレを聞いて来いと申すことで。ソレでお訪ねした。」
とのことである。我輩はこれに対して、
 「イヤ大院君とは約束も何もない。最初井上から大院君と王妃とは、決して政治上に喙を容れてはならぬと云ふことにして、書付まで取って居る。然るに王妃は何時の間にか以前に倍して、政治上に関係するに反し、大院君は相変らず押込隠居同然の有様であった。ソレでアノ事件の起った朝、自分は大院君に会って、元々斯う云ふ関係になって居るから、殿下は政治上に容喙することはなりませんぞと戒めた。大院君も李家を救うて呉れると云ふことなら、何よりも有り難い。決して政治上に関係せんから、安心して呉れと云ふことであった。一言半句も理屈はない。唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない。唯井上の折りの書付が反古になったのを、自分か再び活かしたまでの事だ。此辺の事情を能く申上げて呉れ。」
   −三浦梧楼『観樹将軍囘顧録』政教社(1925年)−
現在、この本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーでインターネットネット公開されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019972/193

戦前の歴史書の記述

 日清戦争から露館播遷に至る朝鮮の歴史では、王妃暗殺事件が重要であるが、戦前の日本の歴史書では完全に無視していた。触れたくない日本の黒歴史なのだろう。

三品章英/著『朝鮮史概説』弘文堂(昭和15年)
 然し日清職役によって得られた日本の優位は、露独仏三国の干渉によって其半を否定され、露国はじめ欧米列強の極東に於ける支配力が、又もこの依存国人の心を迷さずに置かなかった。日清役の結果、其背後勢力を失った旧事大党が新しく満洲方面に現はれ来った大国ロシヤの勢力に接近して、親露党として、勢力を挽回し、明治二十九年、独立党政府の開化主義改革に対する江原忠清方面の叛乱を機に、彼等は王及び太子を擁して露国公使館に移り、ここより国王は、詔勅を雨下して政冶を執った。
(P153)(旧字を新字に変換した)


戦後すぐの歴史書の記述

 戦後、朝鮮史研究で中心的な役割を果たす旗田巍が1951年に出版した朝鮮史の一般向け解説書では、日本の関与を匂わせる記述になっているが、日本公使三浦梧楼らの犯行であることには触れていない。

旗田巍/著『朝鮮史』岩波全書(1951/12)
まず三国干渉によって日本が屈服すると、日本と結ぷ開化党政権が動揺し、ロシアと結ぷ閔妃一党の力が大きくなった。開化党はこの頽勢をとりもどすために、日本公使以下多数の日本人と連絡し、またも大院君をかつぎ出し、兵士を率いて王宮に乱入した。閔妃はこの変乱の中で殺され、親露派は一掃された。いわゆる「乙未事変」(一八九五)である。(P190))(旧字を新字に変換した)


 日本で、日本公使三浦梧楼らの犯行であることを明確にしたのは、1960年代ごろの山辺健太郎の研究である。山辺は日本の公文書を調査することにより、閔妃殺害事件を解明した。
 山辺の研究以前でも、海外の歴史書の訳本では日本公使三浦梧楼らの犯行であることが明確に記載されている。

エイドゥス/著 米川哲夫、相田重夫/訳 『日本現代史 上巻』大月書店(1956.5)
日本人にたいして敵対的感情を抱いていた王妃(閔妃)は、日本人によって殺害された。京城駐在の三浦日本公使に買収された刺客が、一八九五年一〇月八日王妃の宮殿に侵入し、そこで王妃を殺害したのである。(P89)




現在の歴史書の記述

 山辺の研究以降、日本の歴史学界では、三浦梧楼らによる犯行だったことが定説となった。

和田春樹,後藤乾一,木畑洋一,他/著 『東アジア近現代通史 上』(2014/9) 岩波現代全書

 本書は、岩波講座『東アジア近現代通史』全10巻の各巻冒頭に掲載した「通史」部分をまとめたもので、東アジア近現代史の概要が記される。閔妃事件は和田春樹執筆で次のように記載されている。

 国王高宗と閔妃はロシアの力を頼んで、日本の干渉を押し戻す方向に動いた。衝撃をうけた日本の対外硬派の活動家柴四朗や参謀本部の川上操六らは戦争で獲得した朝鮮に対する支配権と利権をあくまでも確保しようとした。それが三浦梧楼新公使の主導した閔妃殺害クーデターとなった。
 一八九五年一〇月八日未明、閔妃は乾清宮の中で日本人によって殺され、近くの松林の中で焼かれた。これはあまりに許されざる暴挙であり、日本の国際的体面は完全に失われた。現場でこの暴挙を告発したのはロシア人の建築家セレジーン=サバーチンとロシア公使ヴェーペルである。妃を殺され、その上で妃を非難し、庶民におとすという勅令を発させられた国王高宗は怒りにふるえていた。翌年二月一一日、高宗と皇太子は王宮を脱出し、ロシア公使館に逃れた。そして国王の逆クーデターを宣言した。これまでの閣僚は罷免され、総理金弘集は警官と民衆に惨殺された。事態収拾のために朝鮮に派遣された小村寿太郎が嘆いたように、このとき日本は「天子を奪われて万事休す」という状態に陥ったのである。(P54,P55)



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