竹島(独島)問題 と 日露の関係
竹島(独島)は韓国との問題ですが、ソ連・ロシアと無関係というわけでも有りません。
日本が竹島を領有したのは1905年ですが、このとき、日露戦争の真っ只中で、日本はバルチック艦隊の参戦を恐れていたときです。このとき、日本海の制圧が日露戦争の勝利に欠かせなかったので、竹島には戦略的価値がありました。
そもそも、日露戦争は、南下するロシアと朝鮮半島へ進出する日本とが衝突したものです。当時、ロシアには朝鮮半島を支配するだけの実力は無かったのに、高宗のロシア公使館逃げ込みをきっかけに、朝鮮半島に深入りします。高宗がロシア大使館に逃げ込んだのは、日本に妃を暗殺されたことが原因でした(注2)。日露戦争に勝利した日本は、朝鮮半島を植民地にしました。
第2次世界大戦の終わり、ソ連が対日参戦すると、中国東北部を支配していた関東軍は崩壊、ソ連参戦の翌週、日本はポツダム宣言の受諾を表明、朝鮮半島は独立を果たしました。そして、敗戦の翌年1月、GHQの同じ命令で、北方領土・竹島の支配権を失いました。
竹島(独島)問題に関連する日韓・日露関係史 | |
1870年 | 外務省の佐田白茅、朝鮮視察から帰国し、「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」と題する報告を行う |
1875年5月 | 樺太・千島交換条約調印 |
1875年9月 | 江華島事件 江華島付近で、日朝間で武力衝突が起こる |
1877年3月 | 太政官の指令により「竹島外一島を版図外」と定める 竹島とは鬱領島のこと。外一島とは現在の竹島とみられる (注1) |
1882年7月 | 壬午事変 当時、日本から軍事顧問を招聘し、改革政策が実施されていたが、この政策に不満を持つ軍民が反乱をおこして、日本公使館が襲撃された。 大院君(王の父)は反乱に乗じて閔妃(王妃)一族を打倒した。宗主国であった清国が介入して反乱を鎮圧し、大院君を排除し閔妃は復活した。 |
1882年9月 | 朝鮮王朝、日本政府に対し、鬱陵島への日本人の越境を抗議。 翌年3月、日本政府は鬱陵島への日本人渡海を禁止する。 |
1884年12月 | 甲申政変 日本軍の支援を受けた金玉均らはクーデターを起こし政権を奪取した。 清国の介入により日本軍は排除され、クーデターは失敗し、閔妃(王妃)は復活した。 |
1894年 | 甲午農民戦争 東学を中心とに排日などを主張する農民の反乱。 |
1894年7月 | 景福宮(朝鮮王宮)占拠事件 日本軍の一団は7月23日未明、王宮に押し入り警備の朝鮮兵たちとの約3時間にわたる銃撃戦の末に王宮を制圧した。 日本は大院君を摂政に据え、清国寄りの閔妃(王妃)一族を政権から排除し、傀儡政権を樹立した。 |
1894年7月 | 日清戦争開戦 |
1894年秋 | 第2次農民戦争・秋の蜂起 朝鮮各地で抗日運動がおこる。日本軍はこれを徹底的に弾圧した。 |
1895年4月 | 下関条約・三国干渉 日清戦争で勝利した日本は遼東半島の割譲を受けたが、仏・独・露三国の勧告により、清国に返還させられた。 |
1895年10月 | 日本公使三浦梧楼、韓国王妃閔妃を暗殺(閔妃事件/乙未事変) (注2) |
1896年2月 | 朝鮮王・高宗、ロシア公使館に保護を求めて移る(露館播遷/俄館播遷) (注2) (1897年2月まで続く) |
1896年5月 | 小村・ウエーバー協定 韓国国王の王宮帰還に関する協定 |
1896年6月 | 李・ロバノフ協定 清国とロシアとの間で結ばれた協定。 日本が極東ロシア、清国、朝鮮を侵略した場合の相互援助の約束した。 |
1896年6月 | 山県・ロバノフ協定 朝鮮半島における日露間の勢力均衡を定めた協定 |
1898年4月 | 西・ローゼン協定 日露両国の韓国政治の不介入、韓国の要請で軍事顧問を送るときは了解を取る、ロシアは日本の韓国内の商業活動を妨害しないことを定めた。 |
1900年10月 | 大韓帝国勅令41号で鬱陵島を欝島郡に昇格、同郡の行政区域を鬱陵島と竹島、石島とする (石島とは竹島との説あり。また勅令の竹島とはチクトのこと) |
1904年2月 | 日露戦争開戦 (注3) |
1904年2月 | 日韓議定書 |
1904年8月 | 第一次日韓協約 |
1904年10月 | バルチック艦隊、リバウ軍港を出航 |
1905年1月 | 旅順陥落 この戦闘に関連して、私の祖父・高田良順住職は功7級金鵄勲章を授与された |
1905年2月 | 竹島を島根県に編入 |
1905年5月 | 日韓通信業務合同 (注4) |
1905年5月 | 日本海海戦 |
1905年7月 | 海軍人夫38名竹島に上陸し、仮設望標を建てる |
1905年9月 | ポーツマス条約調印 |
1905年11月 | 第二次日韓協約(乙巳保護条約) |
1905年12月 | 韓国総監府設置(初代統監伊藤博文) |
1907年7月 | 高宗、ハーグ平和会議で日本の侵略を訴えようとしたが失敗 高宗、総監府により退位させられる |
1909年10月 | 伊藤博文、韓国人・安重根により暗殺される (注5) 2014年、暗殺現場となったハルピン駅に、安重根を顕彰する記念館が開館した |
1910年08月 | 韓国併合 |
1945年8月 | ソ連対日参戦 |
1945年8月 | 韓国、植民地支配から解放される |
1945年9月 | 日本、降伏文書に調印し、占領下に入る |
1946年1月 | GHQ命令SCAPIN-677 千島列島(歯舞群島を含む)や竹島の政治的行政的権限を喪失 |
1950年6月 | 朝鮮戦争勃発。東西冷戦が、ついに戦争に発展。 |
1952年4月 | サンフランシスコ条約発効。日本国は独立を果たした。 東西冷戦のさなか、米国を中心とする西側諸国との片面講和だった。 |
1953年7月 | 朝鮮戦争終結 |
竹島(独島)問題に関連する日韓・日露関係史 | |
1904年11月 | 竹島に調査船を派遣し、望楼建設の可能性を調査 |
1905年1月2日 | 旅順陥落 |
1905年1月5日 | 水師営の会見 |
1905年1月10日 | 内務省、内閣に対して竹島領有の審議要請 |
1905年1月10日 〜1月21日 |
東郷元帥、東京にて政府と接触 |
1905年1月21日 | 全艦隊に対して、対馬海峡への結集命令 |
1905年1月25日 〜1月29日 |
黒溝台会戦 |
1905年1月28日 | 閣議、竹島の領土編入決定 |
1905年1月28日 | クロパトキン(露)総司令官、作戦中止・退却を命令 |
1905年2月22日 | 竹島の領土編入 |
1905年3月1日 〜3月9日 |
奉天会戦。3月10日、日本軍、奉天占領。 |
1905年4月8日 | バルチック艦隊、シンガポール沖を通過 |
1905年5月27日 | 日本海(対馬沖)海戦 海戦終了後、日本海軍、鬱陵島に終結 |
1905年5月28日 | ネボガトフ提督、竹島沖にて降伏 ロジェストベンスキー提督、鬱陵島沖にて降伏 |
1905年8月16日 | 竹島東島望楼完成 |
(注1)『竹島外一島』について
ここで言う『竹島』とは、現在の鬱陵島のことである。『外一島』とは、現在の『竹島』のことであるとする説と、そうでないとする説があったが、最近は、現在の『竹島』とする説が有力である。実際、島根県広報誌「フォト島根No161(2006年発行)」においても、『外一島とは、現在の竹島とみられる』と説明されている。
(参考)島根県広報誌フォト島根No161より
地籍編さんのため、内務省から76年に竹島(現在の鬱陵島)に関する照会を受けた島根県は「山陰一帯ノ西部ニ貫付(所属)スベキ哉」と回答したものの、同省が最終的な判断を仰いだ太政官は、同島と外一島を「本邦関係無之」とし、日本領ではないとの認識を示した。外一島とは、現在の竹島とみられる。
1877年日本は太政官指令に於いて、竹島・松島は日本の領土でないことを正式に決定した。左図は1876年ドイツ・Stielerのロシア地図の一部。当時、隠岐以西の日本海には、2つの島しかないことが既に知られていた。
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ウルルン島、竹島の島名の変遷(ウルルン島、竹島の認識)
(注2)閔妃殺害事件と露館播遷
日清戦争で勝利した日本は、軍事力を背景に、朝鮮への内政介入を強めてゆく。これに対抗して、朝鮮はロシアの影響力を利用して日本を排除しようとした。日本公使三浦梧楼らは、親ロシア派の中心と目した王妃(閔妃)殺害を計画し、日本軍守備隊、日本警察官、訓練隊(日本軍将校に指導された朝鮮軍隊)、日本人新聞記者、日本人壮士らを動員し、王妃殺害を実行した。王妃殺害後、三浦公使対面に国王・大院君(国王の父)が臨席し、親露派閣僚を解任して内閣を親日派でかためた。しかし、日本に王妃を惨殺された朝鮮各地では国母(王妃)復仇の義兵運動などの反日運動が起こった。また、王妃殺害は外国人にも目撃され、日本は国際的な非難を浴びたため、三浦公使以下殺人関係者を召喚し裁判にかけたが、全員証拠不十分として無罪放免した。
王妃を殺害され、自身や王子の生命の危機を感じた国王は、その後、王子を連れてロシア公館に逃れた。これを「露館播遷」「俄館播遷」という。露・俄はどちらもロシアを意味する。露館播遷の結果、王妃殺害で成立させた親日政権は崩壊して、親ロ政権が誕生した。
参考に、いくつかの辞典や文部科学省検定済み教科書における「閔妃殺害事件」の説明を掲載する。 『閔妃殺害事件』の辞典などでの説明はここをクリック
大学入試問題日本史にも閔妃殺害事件はときどき出題される。この事件は、山川出版・詳説日本史の欄外に記載されているので、上位大学の日本史を受験する場合は、日本が王妃を殺害した結果、韓国がロシアへ接近したという歴史の流れに加えて、「三浦梧桜」の名前を覚えておいたほうが良いだろう。
大学入試センター試験・日本史でも閔妃暗殺事件関連が出題されることがあるので、ある程度のレベル以上の大学を目指す受験生は、日本公使らが朝鮮王妃を殺したことと、関連する歴史の流れは覚えておくと良いだろう。上位大学を除いて、細かい年号や三浦梧桜の名前までは必要ないかもしれない。
参考に、大学入試問題日本史に出題された「閔妃殺害事件」のいくつか掲載する。 大学入試日本史に出題された『閔妃殺害事件』はここをクリック
(注3) 日露戦争
日本軍は物資調達のために現金の代わりに軍票を使用した。朝鮮半島が日露戦争の戦場だったため、裏面にはハングル文字が書かれている。
日露戦争のさなか、日本は韓国の郵便・通信を支配した。
左写真は日韓通信業務合同を紀念して、1905年7月1日に発行した記念切手。
これまで使用されていた韓国切手は、前日の6月30日をもって販売停止、1909年8月31日をもって使用停止となった。
安重根を顕彰する切手が韓国・北朝鮮で発行されている。上写真は、いずれも韓国で発行された切手。
竹島(独島)問題の概要 鬱陵島から竹島は見えるか(計算で推定しました)