最終更新 2017.11

 

 司馬遼太郎/著『花神』には、大村益次郎が桂小五郎に対して、竹島領有を進言したと書かれている。ここでいう竹島とは、司馬の本では現在の竹島であるとされているが、実際は鬱陵島のことだった。司馬がどうして史実と異なることを書いたのか理由はわからない。鬱陵島は朝鮮の領土であることが江戸時代から決まっていた。現・竹島は鬱陵島と一体のものとして理解されていた。現・竹島が鬱陵島と切り離されて議論されたのは、日露戦争期に日本が竹島領有を目論んだ時が最初である。もし、司馬の書いたように、大村益次郎が鬱陵島と切り離して、現在の竹島の領有を主張したのならば、日本の竹島主張の援護の一つとなるだろうが、司馬の著述は史実に反する。

 司馬の本に出てくる興膳昌蔵の弟、興膳五六郎の墓が、東京多磨霊園(22区1種12側)にある。

 


司馬遼太郎『花神』新潮社(1993.11.20)

P156〜P159

 ところで蔵六が考えている要人とは、御一門や世襲家老のようなものではなかった。その種の藩貴族は、どの藩でもそうだが、実務能力をうしなって飾りびなのようになっている。蔵六が接触しようとしているのは、高は百石そこそこ、年は二十五、六の若者だった。桂小五郎である。
 桂は、江戸で諸藩の憂国家と交際してすでにこの安政五、六年の時期には長州では桂、といわれるほどに一種の名士になり、藩でも桂の発言はいちもくおかれるようになっている。蔵六が、数ある長州藩士のなかからこの桂をえらんで接触しようとしたのは、かれが元来ものごとの本質を見ぬく目をもっていることとつながりがあるらしい。
 桂が帰国していることも、すでに江戸を出発するとき、桂が一時入門していた江川太郎左衛門からきいて知っていた。
 桂のこのときの帰国は、結婚のためであった。帰国後、同藩の宍戸平五郎のむすめお富と結婚した。ついでながらこの妻は早世する。
 さらに帰国後の桂の日常は、かれの師匠にあたる吉田松陰との接触が多かった。松陰はこのころ藩の獄にいた。この時期、松陰の学塾である松下村塾の塾生たちは一様に政治活動をはじめ、過激化し、藩内における政治思想団体として成長しつつあった。
 蔵六は萩に上陸すると、城下江戸屋横丁にある桂の屋敷を訪うた。
 むろん、あらかじめ下僕の戻次に手紙をもたせて訪問の可否を問うてある。桂はむろん待った。
 桂家のひとびとは、幕府の講武所教授という、とほうもない顕官をこの家にむかえることで、さわいでいた。しかもその顕官が、
−御領内鋳銭司村の百姓の出らしい。
 ということで、さらにおどろいてしまっていた。
 この桂は、実父の和田昌景の家にすんでいる。昌景は医者であったが、嘉永四年に死んだ。医家であったためやや特別な構造になっていて、玄関が左右ふたつある。患者のための玄関と、他の客のためのそれとであった。蔵六はその正客用の玄関を入りながら、
(ああ、ここも医者であったか)
と、きもちが楽になった。
 桂は、式台まで出て蔵六をむかえた。ひどくいんぎんな物腰で、蔵六を客室に案内した。
 蔵六が、上座である。双方あいさつをした。桂は齢若ながら、すでに老成の物腰がある。蔵六が意外におもったのはちかごろはやりの志士というものの類型とはちがった人物で、肩をあげて激越なことばを吐くというところがなく、うまれながらの長者というふうがあった。そのくせ大きさを感じさせるというところまで至らないのは、その秀麗な容貌のどこかにかげをつくっている憂愁のにおいがそうさせるのかもしれない。
 ついでながら、桂は長州藩における最初の憂国家グループに属している。松陰の弟子というより友人というふうな存在で、早くから私費で剣術修業のために江戸へ出た。たちまち斎藤弥九郎道場の塾頭になったから、剣客としては一流の才質があったのであろう。が、桂を剣術以上にとらえたのは、海防問題であった。かれは斎藤道場にかよいながら、一方江川太郎左衛門の塾に入って西洋兵術をまなんだりしたあとで、幕吏中島三郎助について艦船製造の術をまなんだのもそれであった。
 かといって、かれは江川の学問も中島の技術も身につけるほどにはいたらなかった。本来技術者ではなく、政治家たるべき人物であったにちがいない。藩もまた、桂に対し、そういう面を期待した。桂は他藩士とさかんに交際し江戸においてはあたかも長州藩の下級外交官であるような存在であった。
 桂は、幕府の立場からいえばいわゆる過激派であったろうが、しかしよほど精神の肉質のあつい男で、物事に過熱するところがなく、調整能力に富み、長州藩の名物ともいうべき藩内過激分子をよくおさえ、かといって親分といった位置にはつかない。さらにいえば桂は松陰のような思想家でもなく、松陰門下の若いひとびとに共通するイデオロギーの殉教徒風でもなく、また高杉晋作のような天才の栄光を負った戦略家でもない。親切で世話ずきで実務的で、物事をひろい幅で考えうる天成の政治家というのがこの人物であろう。蔵六が、この人物と接触しようとしたことは、きわめて当を得ている。
 桂は、蔵六に対し、自分よりも身分の上の人物として処遇した。これだけでも、萩の他の武士ならできにくいことであったろう。おなじ長州藩という立場では、蔵六の生家は百姓身分にすぎないからである。
 蔵六が、この長州藩の青年政治家にもちこんだ話題というのは、日本海にうかぶ無人島のことであった。
 その小さな島は隠岐島から西北百五十八キロの海上にある。
「竹島」
 と、漁民たちからよばれていた。
 この島は、朝鮮でいう欝陵島とよくまちがわれるが、そうではない。この島は島のかたちをなす東島と西島を本体とし、その付近の岩礁をふくめて「竹島」と称される。風浪がつよく、このためわずかに島の上に草がおおっているにすぎない。この島の存在は豊臣期に発見され、山陰地方の漁民が漁場としてひらいた。島には水がなく、人の居住をゆるさないが、漁場としての価値が大きい。が、いったいこの無人島が日本のものであるのか韓国のものであるのか帰属がはっきりせず、江戸初期、日韓外交の一課題としてしばしば操め、明治三十八年やっと日本領になり、島根県隠岐郡に属したが、第二次大戦後、ふたたびややこしくなり、韓国が主権を主張し、いまなお両国のあいだで未解決の課題になっている。
 幕末、海防が時勢の大きな課題になるや、この島の領有を明確にすることがやかましい問題になり、土佐藩士岩崎弥太郎がここへ探険に出かけたこともある。
 この蔵六の時期は、岩崎の探険よりずっと前のことである。ただし蔵六が先覚的にいいだしたのではなく、蔵六と同時代人で長府藩(長州藩の支藩)の侍医であった興膳昌蔵が先唱者だったといっていい。興膳は京都の人だが、シーボルトについて蘭方医学をおさめ、長府藩の侍医になった。かれの家はかつては長崎で代々貿易商をいとなんでいたため、東シナ海や日本海の事情にあかるく、竹島のことも家系伝説としてふるくからつたわっていた。
「竹島を堂々たる日本領にせねばならぬ」
 というのは興膳の持説で、吉田松陰もこの説をきいて大いに賛同したことがある。後年松陰の門人の高杉晋作が、
 −奇兵隊をもって占領しよう。
 といっていたが、藩内の動乱のためにそれどころでなくなり、さらに興膳昌蔵自身も、あるつまらぬ事件にまきこまれて暗殺されてしまった。蔵六は興膳とはべつに江戸において竹島という日本海の孤島の存在を知った。
 −これは長州藩領にしたほうがよいのではないか。
 とおもい、桂にそれをすすめたのである。
 さいわい、桂も松陰からその問題をきいていた。蔵六は講武所でうつした日本地図をひろげ、竹島の所在を示し、その島についてかれがしらべたところをすべて話した。
 話は、それだけであった。
 桂の新妻のお富が茶菓をはこんできたときは、蔵六はもう立とうとしていた。雑談のできぬ男で、話がすめば容赦なく立ちあがってしまう。対面は、それだけであった。
 が、この両人がたがいに知ったということは、大げさにいえばその後の日本歴史にかかわる事件であった。
 あっけないといえばこれほどあっけない対面はないであろう。蔵六はわざわざ日本海まわりの北前船にのって萩まできた。めざすのは桂小五郎であった。ところが「竹島」の話をしてしまうと、さっさと辞去してしまった。
(変った人物だ)
 と、小五郎はよほど強烈な印象をうけたらしい。
 −あのぶあいそうさはどうだ。
 と、桂はおかしかった。しかし長州藩領の領民が、幕府の官学教授になっているといううれしさは、桂にとって躍りあがりたいほどのものであった。この時代のひとびとの郷土愛もしくは愛藩の情というものは、明治後藩が解体して内国的にインターナショナルの世界になったのちの日本人からは、想像を絶した深さがあった。なにしろその情のためには命をすてるという時代である。
 「長州にも、えらい人物がおる」
 という旨を、桂は藩内の同志や有力者に手紙をかいた。元来長州人は文章をかくことがすきであり、同志や友人とのあいだの手紙の往復がじつにひんぱんで、このため領内の街道にはそういう書簡の束をかかえた飛脚問屋の人夫がとびまわっている。藩内での情報交換や江戸や京都からの情報吸収の能力の高さは長州藩がどの藩よりぬきんでていたが、これはもともとこの長州人たちの共通の性癖というものであった。が、この共通の性癖が、のちにこの藩を機敏にし、時勢への反応をするどくしてゆく大きな理由になってゆく。
 桂は、蔵六のことを藩政務役(関僚)の長井雅楽にも手紙でおくり、年下の同志である久坂玄瑞にも書き送った。来嶋又兵衛という男にも書いた。
 といって、桂はまだ村田蔵六の人物のすべてがわかったわけではない。
 −わが長州から、幕府の蕃書調所と講武所に出仕して
いる人物がいる。
 ということが桂のおどろきであり、その驚きをつたえたにすぎず、竹島の一件なども桂にとって事あたらしい意見ではなかった。蔵六のほうでも、桂に会うための話題としてそれをもって行ったにすぎない。
 ところで長州藩のこの時代での特徴は、藩内からうずもれた人材を発掘することに躍起になっていることであった。伊藤博文などは父は百姓あがりで、かれは少年のころ中間のような仕事をした。そのような卑賎の身から、藩士になった。
「村田は長州の出だ。ぜひ会いにゆけ」
 と、桂が江戸の友人にまで知らせているのは桂のおもしろさというより、この藩の気分というものであった。



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