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湯地定基(ゆちさだもと)の墓

 根室県令、千島アイヌ強制移住

 墓所:東京都港区南青山二丁目 青山霊園 1種イ3号3側  

 1875年(明治8年)樺太千島交換条約で千島が日本の領土になり、樺太がロシア領になると、アイヌ等原住民が日本国籍を取る場合は日本領に住み、ロシア領に住む場合はロシア国籍となると決められた。日露どちらの国籍を選択するのかは3年以内とされた。日本人は日本国籍のままロシアに住むことが容認された。
 新領土を受領するため、開拓使五等出仕時任為基はロシア側理事官とともにシュムシュ島とウルップ島で授与式を行ったおりに、国籍選択を住民に布告し住民に説明しようとしたが、シュムシュ島の千島アイヌには出稼ぎ者が多く、人口も戸数も把握できなかった。時任為基は明治9年にも、シュムシュ島を調査し、このときは35人の千島アイヌに出会った。結局、千島アイヌ全員の去就を確認することなしに、3年が過ぎてしまい、十分な説明なしに、千島アイヌは日本国籍とされた。
 当時、千島アイヌの多くはロシア語を話し、ロシア正教を信仰ていたため、日本から遠い北千島に千島アイヌを住まわせておくと、ロシアに通謀する恐れがあった。このため、千島アイヌをエトロフ島か周辺に移住させようと説得するも、彼らはこれを固辞した。
 1884(明治17)年7月1日、根室県令・湯地定基、参事員議官・安場保和、内務省輔・芳川顕正、太政官大書記官・ロシア語通訳・小島倉太郎ら一行は、汽船函館丸で北千島シュムシュ島へ上陸した。7月3日、クリルアイヌの首長アレキサンドルに対して、湯地県令は、日本の内地を見学するよう誘いかけたが、家族を残しては行けないとの返事だったので、家族を連れて内地に行くように求めた。このようにして、97名の千島アイヌ全員を汽船に乗船させて、シコタン島へ移住させた。

 色丹島に移住させられた千島アイヌは悲惨な状況に陥った。根室県は千島アイヌの生活のために農具・家畜や漁具を貸し出し、農業や漁業で生計を立てられるように図ったが、もともと農業の経験がなく、成功しなかった。移住の翌年までに、97名中20名が死亡し、1899年(明治32年)には63名が死亡しており、その後生まれた子供を加えても、千島アイヌは63人に減少した。こうした状況にあったので、明治31年、千島アイヌ10人を試みに、北千島に海獣狩猟の出稼ぎに出した。ただし、この時すでにシュムシュ島には郡司忠成らの植民地になっていたので、彼らの狩猟地はパラムシル島とされた。この出稼ぎ猟はある程度成功したようだが、その後の日露戦争により中止された。
 昭和16年(1941年)最後の千島アイヌが死亡して、千島アイヌは滅亡した。

東郷茂徳の墓に近い 湯地家之墓 墓石側面

最終更新 2019.5


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