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高橋景保の墓

 幕府天文方。間宮林蔵の無能さ、狡猾さを見破ることができなかった悲劇の知識人。

 墓所:東京都台東区東上野6-18 五台山 源空寺(浄土宗)

 高橋景保は江戸時代後期に幕府天文方として地図作成に尽力した。「新訂万国全図」を作成するとともに、伊能忠敬の全国測量事業を監督するなど、日本の精密測量を指導した。間宮林蔵の密告により、シーボルト事件が発覚し、獄死ののち斬首された。


無能な間宮林蔵のために不正確な地図を作製

 樺太探検では、間宮林蔵がどのような測量技法を使用したのか、詳しいことはわかっていない。樺太は北緯46度から北緯54度に至る大きな島であるが、林蔵は樺太北端を北緯50度強と誤った。北緯の値は北極星の高度を測ればよいので1度ずれるとは考えにくいが、よほど知識がなかったのだろう。

 下図は「間宮林蔵作成地図」「クルーゼンシュテルン作成地図」「現代の地図」の比較。北緯46度と北緯50度を同じ位置に書いて比較している。クルーゼンシュテルンの地図は現在の地図とほとんど違いはない。間宮林蔵の地図では樺太が小さすぎる。


左図:1811年、間宮林蔵 北夷分界夜話 巻之一(国立公文書館デジタルアーカイブ)
 間宮林蔵が樺太探検について口述したものを村上貞助が編集・筆録したもで、文化7年(1810)に成立し、翌8年に幕府に献上された。

中央:1811年、クルーゼンシュテルン 太平洋北西部地図

右図:Google Earthの地図


 (間宮林蔵の地図、クルーゼンシュテルンの地図とも、見やすいように着色している)




 幕府天文方の高橋景保は間宮林蔵の無能さと狡猾さを理解していなかったようだ。間宮林蔵は松田伝十郎の案内で樺太が島であることを知り、これを高橋景保に伝えた。景保が1809年に刊行した日本辺界略図では、樺太を島として描き、大きさ・位置はアロースミスの地図を使っていると思われ、それなりに正しく描けている。ただし、高橋景保は間宮林蔵から得た情報で樺太を島として描いたが、どの程度離れているのか正しく情報が伝わっていないようで、50q程度大陸から離している。実際は7km程度。アロースミスの地図でも20q離れているので、正確とは言いえないが、日本辺界略図に比べれば、多少まし。
 ところが、林蔵の樺太地図が知られると、高橋景保の地図での樺太の大きさ・位置は林蔵が作成した精度の悪いものになってしまった。1810年刊行の「高橋景保 新訂万国全図」は間宮林蔵の樺太地図を参考にしたため、樺太北端は北緯50度強となり、樺太が小さくなったため、アムール河口の緯度が南にずれた。この結果、アムール河口からオホーツク海北岸距離が間延びし、沿海州が寸詰まりになった。
 間宮林蔵の樺太地図は誤ったものだったが、ヨーロッパでは、1787年ラ・ペルーズの計測、1806年クルーゼンシュテルンの計測、1811年ゴローニンの計測など、正確な樺太沿岸部の測量があったので、林蔵の稚拙な測量が世界の地理認識に与えた影響はない。1850年に山路諧孝により作成された重訂万国全図では新訂万国全図の誤りが修正されている。
 高橋景保は間宮林蔵の密告に端を発するシーボルト事件で獄死した。

 北方図の作成では、間宮林蔵以前に、最上徳内、伊能忠敬が有名だ。
 最上徳内は永井正峯の元で算術を研鑽し、本多利明の音羽塾で天文学・測量術を学んでいる。
 伊能忠敬は商家の養子で、酒造、金融、水運など手広くかかわっていたため、算術の才能はもともとあったのだろう。実際、蝦夷地測量前に、伊能忠敬が松平忠明に提出した申請書には「若い時から数術が好きで、暦算、天文も心掛けていたが、その後、さらに高橋至時の元で6年間昼夜勉学に努めた」と書かれている。
 これに対して、間宮林蔵は百姓の子として生まれ、その後、幕府の下役人となったもので、まともに学問をしたことはなかったようだ。
 高橋景保は幕府天文方の長男として生まれたので、幼少のころから学問を仕込まれていたのだろう。高橋景保のような学問の環境の家庭で育った者のには、間宮林蔵のような無知無学の徒が、この世の中に存在すること自体が、にわかに理解できなかったのかもしれない。

 アロースミスの地図、日本辺界略図、新訂万国全図、重訂万国全図における樺太近辺を示す。わかりやすいように北緯50度の線を少し太くした。
 注)新訂万国全図、重訂万国全図は国立公文書館デジタルアーカイブ公開地図を基本とした。

1801年 アロースミス アジア図 1809年 高橋景保 日本辺界略図
アロースミスを参考にしており正確
1810年 高橋景保 新訂万国全図  
間宮林蔵の樺太地図を参考にしたため
樺太や大陸が誤って描かれている
 
1850年 山路諧孝 重訂万国全図  
新訂万国全図の誤りを修正



 日本の国粋主義の中で、間宮林蔵が祭り上げられたので、間宮林蔵の樺太地図が正確だったように言われることが多かった。人文地理学会初代会長で京都大学教授の織田武雄が、1974年に書いた著書に、以下の記述がある。

 江戸時代の代表的な世界図は、幕命を受けて幕府天文方高橋景保が間重富と訳官馬場佐十郎の協力を得て、イギリスのアロースミスの世界図を基本として、それに東西の資料を蒐集し、完成までに三年を費して、文化七年(1810)に幕府撰として公刊された「新訂万国全図」である。・・・
 ことにわが国北辺の未審の地方については、完成の前年に提出された間宮林蔵の踏査報告に基づいて、ヨーロッパ人の地図に先んじて、カラフト(サハリン)島や間宮海峡を正確に図示するなど、鎖国日本が世界に誇りうる最新詳細な世界図である。・・・
 幕府はさらに四十五年後の安政二年(1855)に、山路諧孝に命じて新しい資料による改訂を加えて「重訂万国全図」をつくらしめ・・・た。
  『織田武雄/著『地図の歴史 日本篇』(1974/11)講談社現代新書』『織田武雄/著『地図の歴史 世界篇・日本篇』(2018/5)講談社学術文庫(P267,P268)』

 織田武雄は「ヨーロッパ人の地図に先んじて、カラフト(サハリン)島・・・を正確に図示」と書いているが、事実ではない。
 近年は、間宮の測量は誤りであるといわれることも多い。


奉使日本紀行  クルーゼンシュテルン/著 青地盈/訳 高橋景保/校

 この本は、1804年に通商を求めて長崎に来航したレザノフ一行の海軍提督・クルーゼンシュテルンの航海記。オランダ語版を入手した高橋景保を中心に翻訳された。原書は墨書であるが、『北方未公開古文書集成 第五巻  寺沢一・他/編 叢文社 (1979/6)』では活字で出版されている。
 本書 『第十八篇 サハリン東浜』はサハリン東岸の調査記録。クルーゼンシュテルンは、カムチャツカから千島を南下し、ここから西へ向いサハリンの北知床岬(テルペニエ岬)を通り、北上してサハリン東海岸を調査して、サハリン最北端のエリザベート岬(N54°24'30" W217°13'30"と記録)、マリア岬(N54°17'30" W217°42'15"と記録)を通り、タタール海峡(間宮海峡)最北端に至った。サハリン側をゴロワフェブ岬(N53°30'15" W218°05'00"と記録)、韃靼側をロムベルグ岬(N53°30'30" W218°15'15"と記録)としている。緯度・経度の詳細な測定結果が示されている。同じころ、間宮林蔵はサハリン西海岸を調査した。間宮の測定は精度が低かったが、クルーゼンシュテルンの測定はかなり高精度。技術力の違いを感じさせられる。
 高橋景保が作成した世界地図・新訂万国全図の樺太は、間宮林蔵の樺太探検に基づいているため、大きさが半分程度であり、そのためオホーツク海西側の形が変わってしまっている。既に高橋景保が入手していたアロースミスの地図に比べて、樺太近辺の精度が悪い。アロースミスの地図が、クルーゼンシュテルンの正確な測量と大きな違いがなかったことを知った高橋景保は、何と考えたことだろう。


 1994年にクルーゼンシュテルンの業績を記念してロシアが発行した切手。



高橋景保の墓


高橋景保の墓は、源空寺の墓地に入って左側すぐのところにある。

墓標 となりに碑が立っています。
碑も割れている。
碑の裏側にはシーボルトの文
シーボルトの文の翻訳




 源空寺は上野駅または稲荷町駅から歩いて10分ぐらい。

源空寺本堂 墓地は道の向こう側


源空寺墓地は道路の反対側にあります。

墓地入り口
伊能忠敬と高橋至時の墓の標識
墓地のお薫は阿弥陀如来座像


源空寺の墓地に入って右側すぐのところに高橋景保の墓がある。この隣には谷文晁の墓や幡随院長兵衛の墓があり、その先に高橋至時の墓と伊能忠敬の墓がある。

谷文晁の墓 幡随院長兵衛の墓



最終更新 2019.11



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