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間宮林蔵  


 日本人としては2番目に樺太が島であることを確認した。樺太地図を作成するが、測量知識が乏しく稚拙。
 間宮林蔵の密告がきっかけでシーボルト事件が起こる。隠密。 


 間宮林蔵は、1780年(あるいは1775年)、農民の子として生まれる。幕府普請役雇の村上島之允の下僕として雇われ、村上島之允に従って、蝦夷地測量補助を務める。1800年、普請役雇として幕府に採用された後、天文地理御用掛に昇進し蝦夷地・択捉島の測量などを行う。このとき、レザノフの襲撃に遭い、徹底抗戦を主張するも退けられた。1808年に、松前奉行支配下役元締・松田伝十郎とともに、樺太島の調査に当たる。1811年に調役下役格に昇進、1822年には普請役となる。間宮林蔵の密告によりシーボルト事件が起き、高橋景保は処刑された後は幕府の隠密として活動した。


 樺太や対岸の沿海州には古来からアイヌ、ニヴフ、ウィルタ、女真(満洲民族)などの民族が居住・往来していので、古くからここに居住していた人たちにとって、樺太が島であることは、よく知られたことだった。
 1804年、長崎に来航したロシアの航海士クルーゼンシュテルンは帰途樺太探検を行なったが、海峡通過に失敗した。このとき、海峡に奥深く入るにしたがって、海水の塩分濃度が低下することを確認していたため、ヨーロッパでは樺太は半島ではないかとの議論が起こった。1800年前後に起こった、樺太が「島」であるのか「半島」であるのかの論争に決着を図るため、幕府天文方の高橋景保は、松田伝十郎、間宮林蔵を樺太に派遣した。

 1808年、松田伝十郎は、樺太と大陸の海峡最狭部南端(ラッカ岬)に達し、樺太が島であることを確認し、「樺太は離島なり、大日本国国境と見極めたり」と記している。松田伝十郎は、ラッカ岬から大陸の山々が近くに望まれ、その間の水道は四里ばかりで、それより奥は海幅も広く、北方に遠くマンコー河口も望見され、さらに、現地住民から6日ばかり北航すればヌエフトと言うところに出られると聞いたので、樺太が大陸とつながっていないことを確認した。松田伝十郎の案内によって、間宮林蔵も海峡の最狭部南端に到達した。アイヌが山丹交易による負債で苦労していることを知った松田伝十郎は、アイヌの負債を幕府が肩代わりする実務を行い、さらに山丹交易を改革した。一方、間宮林蔵は、翌年(1809年)、再び樺太にわたり、松田伝十郎の案内で到達したところよりもさらに北へ140キロメートルほど進んだ。この地を林蔵はナニヲ―としているが、現在のルポロヴォ村付近と考えられている。ここより北は海峡が広がって波も荒くなり、林蔵が乗船していた山靼船では航行困難と判断し、引き返した。このあと、現地人の船に便乗して海峡を経て大陸に渡った。
 このように、間宮林蔵は松田伝十郎に遅れて樺太が島であることを確認した人物であったが、樺太が島であることを確認した人物として間宮林蔵が有名になっている。
 間宮林蔵が海峡を渡ったのは、現地人の船に便乗したものであったが、後年、シーボルトは海峡最狭部を「間宮の瀬戸」と地図に記載した。海峡自体はタタール海峡としている。

 日本の国粋主義の高まりの中、日本人の業績を強調する過程で、シーボルトがタタール海峡を「間宮海峡」と記載したかのごとく宣伝され、日本では間宮海峡の名前が定着した。ただし、海外の地図では、海峡自体は「タタール海峡」、最狭部は「ネヴルスコイ海峡」とするものが多い。ネヴルスコイは、ここを最初に近代船舶で通過したロシア人。

 1811年、千島測量中のゴロウニンは、日本役人の姦計により逮捕され、松前で抑留された。この時、間宮林蔵は彼を訪ねて、西洋の天測機器の使用法などを聞こうとした。ゴロウニンは間宮林蔵を 虚栄心が大変強く、ゴロウニンらを威嚇した最初の日本人であり、ロシア人ばかりではなく日本人からも嘲笑された としている。(ゴロウニン/著,徳力真太郎/訳日本俘虜実記 (上) (講談社学術文庫)(1984/4) P303〜P307)

 間宮林蔵には、アイヌ女性との間に子供がいたので、明治になってから、間宮の子供は「間宮」姓を名乗ることを求めるも、明治政府はこれを拒否し、かわりに「間見谷」とした。旭川アイヌ協議会長をつとめた間見谷喜昭氏は、間宮林蔵の五代目の子孫である。

稚拙な測量

 樺太探検では、林蔵がどのような測量技法を使用したのか、詳しいことはわかっていない。樺太は北緯46度から北緯54度に至る大きな島であるが、林蔵は樺太北端を北緯50度強と誤った。北緯の値は北極星の高度を測ればよいので1度ずれるとは考えにくいが、よほど知識がなかったのだろう。

 下図は「間宮林蔵作成地図」「クルーゼンシュテルン作成地図」「現代の地図」の比較。北緯46度と北緯50度を同じ位置に書いて比較している。クルーゼンシュテルンの地図は現在の地図とほとんど違いはない。間宮林蔵の地図では樺太が小さすぎる。


左図:1811年、間宮林蔵 北夷分界夜話 巻之一(国立公文書館デジタルアーカイブ)
 間宮林蔵が樺太探検について口述したものを村上貞助が編集・筆録したもで、文化7年(1810)に成立し、翌8年に幕府に献上された。

中央:1811年、クルーゼンシュテルン 太平洋北西部地図

右図:Google Earthの地図


 (間宮林蔵の地図、クルーゼンシュテルンの地図とも、見やすいように着色している)


 
 幕府天文方の高橋景保は間宮林蔵の無能さと狡猾さを理解していなかったようだ。間宮林蔵は松田伝十郎の案内で樺太が島であることを知り、これを高橋景保に伝えた。景保が1809年に刊行した日本辺界略図では、樺太を島として描き、大きさ・位置はアロースミスの地図を使っていると思われ、それなりに正しく描けている。ただし、高橋景保は間宮林蔵から得た情報で樺太を島として描いたが、どの程度離れているのか正しく情報が伝わっていないようで、50q程度大陸から離している。実際は7km程度。アロースミスの地図でも20q離れているので、正確とは言いえないが、日本辺界略図に比べれば、多少まし。アロースミスの地図はラ・ペルーズの航海記録を使用していると思われる。ラ・ペルーズは海峡奥深くに入ることができず、海峡幅30キロメートル程度の地点で引き返したので、地図にはそれが反映されているのだろう。
 その後、林蔵の樺太地図が知られると、高橋景保の地図での樺太の大きさ・位置は林蔵が作成した精度の悪いものになってしまった。1810年刊行の「高橋景保 新訂万国全図」は間宮林蔵の樺太地図を参考にしたため、樺太北端は北緯50度強となり、樺太が小さくなり、アムール河口の緯度が南にずれた。この結果、アムール河口からオホーツク海北岸距離が間延びし、沿海州が寸詰まりになった。
 間宮林蔵の樺太地図は誤ったものだったが、ヨーロッパでは、1787年ラ・ペルーズの計測、1806年クルーゼンシュテルンの計測、1811年ゴローニンの計測など、正確な樺太沿岸部の測量があったので、林蔵の稚拙な測量が世界の地理認識に与えた影響はない。1850年に山路諧孝により作成された重訂万国全図では新訂万国全図の誤りが修正されている。
 高橋景保は間宮林蔵の密告に端を発するシーボルト事件で獄死した。

 北方図の作成では、間宮林蔵以前に、最上徳内伊能忠敬が有名だ。
 最上徳内は永井正峯の元で算術を研鑽し、本多利明の音羽塾で天文学・測量術を学んでいる。
 伊能忠敬は商家の養子で、酒造、金融、水運など手広くかかわっていたため、算術の才能はもともとあったのだろう。実際、蝦夷地測量前に、伊能忠敬が松平忠明に提出した申請書には「若い時から数術が好きで、暦算、天文も心掛けていたが、その後、さらに高橋至時の元で6年間昼夜勉学に努めた」と書かれている。
 これに対して、間宮林蔵は百姓の子として生まれ、その後、幕府の下役人となったもので、まともに学問をしたことはなかったようだ。
 高橋景保は幕府天文方の長男として生まれたので、幼少のころから学問を仕込まれていたのだろう。高橋景保のような学問の環境の家庭で育った者のには、間宮林蔵のような無知無学の徒が、この世の中に存在すること自体が、にわかに理解できなかったのかもしれない。

 アロースミスの地図、日本辺界略図、新訂万国全図、重訂万国全図における樺太近辺を示す。わかりやすいように北緯50度の線を少し太くした。
 注)新訂万国全図、重訂万国全図は国立公文書館デジタルアーカイブ公開地図を基本とした。

1801年 アロースミス アジア図 1809年 高橋景保 日本辺界略図

アロースミスを参考にしており、ほぼ正確
1810年 高橋景保 新訂万国全図 

間宮林蔵の樺太地図を参考にしたため、樺太や大陸が誤って描かれている
 
1850年 山路諧孝 重訂万国全図  

新訂万国全図の誤りを修正



 日本の国粋主義の中で、間宮林蔵が祭り上げられたので、間宮林蔵の樺太地図が正確だったように言われることが多かった。人文地理学会初代会長で京都大学教授の織田武雄が、1974年に書いた著書に、以下の記述がある。

 江戸時代の代表的な世界図は、幕命を受けて幕府天文方高橋景保が間重富と訳官馬場佐十郎の協力を得て、イギリスのアロースミスの世界図を基本として、それに東西の資料を蒐集し、完成までに三年を費して、文化七年(1810)に幕府撰として公刊された「新訂万国全図」である。・・・
 ことにわが国北辺の未審の地方については、完成の前年に提出された間宮林蔵の踏査報告に基づいて、ヨーロッパ人の地図に先んじて、カラフト(サハリン)島や間宮海峡を正確に図示するなど、鎖国日本が世界に誇りうる最新詳細な世界図である。・・・
 幕府はさらに四十五年後の安政二年(1855)に、山路諧孝に命じて新しい資料による改訂を加えて「重訂万国全図」をつくらしめ・・・た。
  『織田武雄/著『地図の歴史 日本篇』(1974/11)講談社現代新書』『織田武雄/著『地図の歴史 世界篇・日本篇』(2018/5)講談社学術文庫(P267,P268)』
 織田武雄は「ヨーロッパ人の地図に先んじて、カラフト(サハリン)島・・・を正確に図示」と書いているが、事実ではない。
 近年は、間宮の測量は誤りであるといわれることも多い。


シーボルトの地図

 下の地図は、シーボルトが「間宮海峡」と書いた有名な地図の部分。樺太が島として描かれ、「Mamia Seto 1808」と書かれているので、国粋主義者たちによって、日本人の誇りであるかのように宣伝されたことがある。この地図はアロースミスの地図のマネであることは明らかだが、海峡の幅が40キロメートル〜50キロメートルに描かれており、実際の海峡幅7q程度とは大きく異なっている。アロースミスの地図では20キロ程度と正確ではないが、この地図の海峡幅はさらに劣化している。


 シーボルトの地図に「Mamia Seto 1808」と書かれているので国粋主義者たちによって、日本人の誇りであるかのように宣伝されたことがある。しかし、1808年の間宮林蔵は松田伝十郎の案内でラッカ岬に到達して、松田が確認した樺太が島であることに同意をしたのだから、1808年に間宮が発見したものはない。
 1809年の間宮林蔵は、海峡を通過してナニヲーまで到達した。さらに、現地人の船に同乗し大陸に渡った。これらが北方探検における重要な業績であることに違いはないが、それならば「Mamia Seto 1809」とすべきだろう。
 虚栄心の強い間宮林蔵が1808年の探検を自分一人の手柄であるかのように吹聴したのだろうか。

 間宮林蔵が上司の松田伝十郎を差し置いて先に報告したといわれることもある。しかし、宗谷に帰った両名は河尻春之に樺太が島であることを報告し、さらに、松田伝十郎は松前に戻って松前奉行・村垣淡路守に探検を報告した。間宮林蔵は幕府天文方と関係があったので、高橋景保に樺太探検を報告している。




 間宮林蔵が緯度を誤った原因について、郷土史家の赤羽榮一は次のように書いている。
 林蔵は測量の際、海岸通り、岬々、山々を目当てとして羅鍼により方位を定め、巌のないところは目のとどく限りを見通して地形を定めた(函館図書館『地図凡例』)。 ただし烈風や濃霧のため見通しがきかぬときもある。縄索を用いて里数を測定したわけでないから、その里数においてかなりの誤差がある。 たとえば北緯四六度を西岸のオホトマリ(シラヌシの北)と東岸のトンナイチヤ湖の北、ヲムートに定め(実際は、それより南)北緯四九度をナツコ(五一度余)の北、 黒龍江口付近の地とした。天体観測による緯度・経度の測定法を知らぬ林蔵は、里数によって緯度・経度を定めたのであろうが、実際とはかなりのへだたりがある。 つまりカラフトを短く測定したのである。
   赤羽榮一/著『未踏世界の探検者 間宮林蔵 (新・人と歴史)』清水書院 (2018/8)P100
 赤羽は「天体観測による緯度・経度の測定法」と書いているが、緯度の測定技術と経度の測定技術は大きく異なる。緯度を1度程度の誤差で計測することは、小学生の理科・算数の知識で足りる。

間宮林蔵は宗谷岬付近から樺太の渡ったので、宗谷岬・宗谷公園・渡樺地に銅像や記念碑がたてられている。

宗谷岬に立つ銅像 宗谷公園の顕彰碑 稚内市
開基百年記念塔
渡樺地の碑 渡樺地の説明看板




 林蔵の生地、茨城県つくばみらい市には間宮林蔵記念館や林蔵の墓がある。墓は粗末で墓石の文字はほとんど読めない。この墓は、林蔵が蝦夷地にわたるにあたって、自身で生前に建てたもの。ここに、遺骨が納められているわけではない。

間宮林蔵記念館前の像 林蔵の墓(左)
両親の墓(右)
林蔵の墓前の顕彰碑 林蔵の墓の説明看板

実際の墓は、東京都江東区平野2-7-8 本立院墓地にある。

本立院は平野1-14-7にあり、林蔵の墓はそこから東へ350mほど行った平野2丁目交差点のそばにある。林蔵の墓だけがぽつんとある。


間宮林蔵による樺太最狭部の検分記録

北夷分界余話巻之二 間宮林蔵/述 村上貞助/編

 シラヌシを去る事凡百六、七十里なる西海岸にウヤクトウ(ワンライとノテトの中間)と称する処あり。是よりして奥地は海岸総て沙地にして、地図中に載するごとく、沼湖の多き事かぞへ得べきにあらず。
 此辺より奥地は河水悉く急流のものなく、総て遅流にして濁水なり。其水悉く落葉の気味を存して、水味殊に悪し。
 此辺よりして奥地海面総て平にして激浪なし。然れども其地、東韃の地方を隔る事其間僅に十里、七、八里、近き処に至ては二、三里なる迫処なれば、中流潮路ありて河水の鳴流するが如し。
 迫処の内何れの処も減潮する事甚しく、其時に至ては海面凡一里の余陸地となり、其眺望の光景実に日本地の見ざる処にして、其色青黄なる水草一面に地上にしき、蒼箔として海水を見ず、其奇景図写すること難し。
・・・ ・・・
 シラヌシを去る事凡七十里許、西海岸にウショロと称する処あり、此処にして初て東縫地方の山を遠望す。其直径凡廿五、六里許、是より奥地漸々近く是を望み、ワゲー(ラヅカの北三里二五丁〈「里程記」による〉)よりボコベー〔地名〕(ワゲーの北三里二丁〈「里程記」〉)の間に至て、其間僅に一里半許を隔て是を望むと云。
 島夷東韃に趣く渡口七処あり。シラヌシを去る事凡百七十里許なる処にノテトと称する崎あり〔スメレングル夷称してテツカといふ〕、此処よりして東韃地方カムガタと称する処に渡海す。其問凡九里余を隔つといへども、海上穏にして大抵難事ある事なし。此処よりナッコに至る海路は潮候を熟察して舟を出ざれば至る事難し。前に云ごとく此辺減潮の時に至ては海上一里の余陸地となり、其陸地ならざる処も亦浅瀬多して舟をやるべからず。故に満潮の時といへども海岸に添ふて行事あたわず、能々潮時を考得て岸を去る事一里許にして舟をやると云。
 ノテトの次なる者をナッコといふ〔スメレソクル夷ラッカと称す〕。其間相去る事凡五里許、此処よりして東 カムガタに至るの海路僅に四里許を隔つ。其間大抵穏なりといへども、出崎なれば浪うけあらく、殊に減潮の候、上文のごとくにして、其時を得ざれば舟を出す事あたわず。魚類また無数にして糧を得るに乏しく、事々不便の地なれば、島夷大抵ノテトを以て渡海の処となす。然れども風順あしく又は秋末より海上怒濤多き時は、其海路の近きを便として、此崎より渡海すといふ。
 ナッコの次なる者をワゲーと称す。其相去る事凡六里許、通船の事亦ノテトよりナッコに至るが如く、能潮候を考得ざれば至る事あたわず。此処よりして東韃ヲッタカパーハと称する処に渡る。其海路稍に一里余許にして、海上穏なりといへども、迫処なれば中流潮路有て急河のごとく、風候に依りて逆浪舟を没する事ありと云。
 ワゲーの次なる者をボコベーと称す。此処よりして東韃ワシブニといふ処に渡海す。其海路亦僅に一里半許を隔て、中流潮路もまたワゲーの如し。
 ボコベーの次なる処をビロワカセイと称す。ボコベーを去る事凡四里許、此処よりして東鍵の地方に傍ひたる小興に添ふてワルゲーと称する処に渡る事ありといへども、海路凡十里許を隔、且潮時の候又波濾の激起ありて船路穏ならず。
 ワカセイの次なる処をイシラヲーといふ。其間相去る事凡十五、六里許、是よりして東韃地方ブイロに渡海す。船路凡四里余、中流の潮路殊に急激なるに、此処よりしては漸々北洋に向ひ、此島、韃地の間、里を追ふて相ひらく故に、波濤も激起する事多く、渡海類難なりと云。
 イシラヲーの次なる処をタムラヲーと云、イシラヲーを去ること凡五里許なるべし〔此処は林蔵が不至処なれば、其詳をしらず〕。此処より東韃地方ラガタなる処に渡る。海路凡八里余ありて、北海の波濤又激入すれば、猶イシラヲーよりブイロに至るが如く難事多しと云。是スメレンクル夷の演話する処なり。
 凡地勢を概論したらんには前の数条にしてつきぬ。他海底の浅深、泊湾の難易、詳載せずんばあるべからずといへども、共事の錯雑するが為に、此巻只其概論を出してやみぬ。後日沿海図説てふ者を編て其委曲を陳載すべしと云爾。
 (『東韃地方紀行』東洋文庫484(1988/5)平凡社 P18,P22〜P25)

 間宮林蔵の記録では、海峡地帯の海峡幅や海のようすの記述が詳しい。

北夷分界余話・里程表での地名 海峡幅 現在の地名
kh音はカ行とした
間宮林蔵 現在の海峡幅
ノテト(テッカ) 9里 30km トゥック岬
ナッコ(ラッカ) 4里 15q ラック岬
ワゲー 1里余 10q ウアンギ
ボコベー 1里半 7q ポギビ
ワカセイ 10里 50q ワギス
ユクタマーまたはイクタマー - - イクダム岬
ランガレイ - - ラングリー川
イシラヲー 4里余 26q
ナニヲ― - - ナニオ(ルポロヴォ)
ムシボー - -
タムラヲー 8里 25km タムラヴォ岬

 現在の地名は、手元のロシア製サハリン地図の名称を記載した(ナニオ、タムラヴォを除く)。
 Google Mapでは樺太西岸最北の岬をMys Tamlavoとしている。1876年のドイツ・シュテラーのロシア地図にはGolawatchevとある。手元のサハリン地図には名前の記載がない。Nanioは樺太北部の地域、ただし、手元のサハリン地図には記載がない。ルポロヴォはNanioの北西にある村で、ここには間宮林蔵の碑らしいものが建てられているとの話がある。ルポロヴォ村の海岸線は凸になっているが、間宮林蔵の地図ではナニヲ―は海岸線が平坦なので、林蔵が到達したナニヲ―はルポロヴォ村よりも、もう少し南なのかもしれない。間宮林蔵の里程記などによると、ランガレイ・ナニヲ―間は2里6丁(8km程度)、ナニヲ―・タムラヲーは4.5里程度(18km程度)。実際はラングリー河口・ルポロヴォ村間は14km、ルポロヴォ村・樺太西岸最北岬間は23qである。アムール川流域に住むウリチ族のことをナニともいうので、間宮林蔵の記したナニヲ―は、こういう人たちの部落だったのかもしれない。
 テッカ・ラッカ・ワゲー・ボコベー・ワカセイ・イクタマー・ランガレイなど、間宮林蔵が書いた地名は現在の地名とほぼ同じ。
 間宮林蔵の海峡幅の記載はかなり正確である。イシラヲーは林蔵の記録と実際とで若干の違いがあるように見えるが、この地の大陸側は広範囲にわたって水深が浅く干潮時の海峡幅はかなり狭くなるので、林蔵の記述は誤りではない。


  『高橋景保 日本辺界略図(1809年)』はアロースミスの地図を参考にして作られているため、樺太の緯度などはおおむね正確である。この地図は、間宮林蔵から、樺太が島であるとの連絡を受けて作成されたものなので、樺太を島として描いている。しかし、この地図では、樺太と大陸が40キロメートル以上離れており、不正確である。間宮林蔵は樺太と大陸の距離を正しく検分していたのに、高橋が誤った原因は不明。間宮林蔵との連絡がうまくなかったのだろうか。


松田伝十郎による樺太最狭部の検分記録

からふと嶋奥地見分仕候趣奉申上候書付 松田伝十郎

 からふと嶋と山丹地との間、海浅ク、引汐之節は遥沖合迄出洲二相成、蝦夷船二而も通船難相成、山丹地方は少々深キ由、乍去大船之通船難相成旨、ノテト住居之もの共申之候。
 ナッコより奥之方、海幅打開キ広ク相見へ申候。からふと離嶋二相違有御座間敷と奉存候。ナッコより六日路も奥之方江罷越候得ば、東海岸ヌヱフトと申所江出候由。此間浅瀬にして蝦夷船二而も通船難成、尚又汐路甚強ク御座候
 是迄年々シラヌシ江交易二相越申候山丹人、ナッコ江渡海仕、夫より海岸通リシラヌシ江罷越候儀に御座候。
 六月廿日ナッコよりノテト江罷帰候処、間宮林蔵儀、東海岸シレトコ迄罷越、夫よりマアヌイと申所へ引返、山越仕、西海岸クシュンナヱと申所江出、夫より海岸通りノテト江罷越候二付、出会仕候。同十二日又々林蔵一同ナッコ江渡海仕、夫より壱里半斗リも可有御座ラッカと申川迄罷越、此所二而得と見分仕候処、前文之通、当方地方浅瀬にして蝦夷船も通船難相成、陸路海岸も泥二而踏込歩行難相成、此所より見切罷帰り申候。ノテト江渡海日和無御座、廿四日迄ナッコに滞留仕、翌廿五日ノテト江帰帆仕候。
 (『東韃地方紀行』東洋文庫484(1988/5)平凡社 P196)
 

 間宮林蔵の記述にも、海峡には浅瀬が多くて海路を熟知しないと通船が困難であるように書いているが、松田伝十郎も同様な記述である。特に、大船は通船困難としている。
 1849年、海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイは、海峡を帆船が通行可能であることを示し、松田伝十郎や間宮林蔵の推定が誤りであることを実証した。

地名の参考のための地図(画像をクリックすると拡大し、別ウィンドウで開きます。)

 1808年、松田伝十郎はナッコ(ラッカ)に到達し、樺太が島であると見極めた。間宮林蔵も遅れて到着した。
 1809年、間宮林蔵はさらに北上してナニヲーに到達した。






間宮林蔵のナニヲ―の記録

東韃地方紀行
 同八日、此処(ノテト)を発し、同十目、イクタマー〔地名〕に至りしに、従夷又行事を恐る瓦に依て、やむ事を得ず地夷一人をやとふて先道となし、同十二日、此処を発し、 其日ナニヲー〔地名〕に至りつきぬ。此処此島極北の地にして、夷家僅に五、六屋ある処なり。ノテトより此処に至るの間、島と東韃地の相対せる迫処にして、 潮水悉く南に流れ、其間潮路ありといへども波濤激沸の愁も少く、小軟の夷船といへども進退さまで難き事なし。此処よりして北地は北海漸々にひらけ、潮水悉く北に注ぎ、 怒溝大に激起すれば船をやる事かなわず。さらば山を越へて東岸に出んといへば、従夷また従ひがゑんぜず。やむ事を得ずして、同十七日、船をかへし、同十九日、 ノテトに帰り至りぬ。
(『東韃地方紀行』東洋文庫484(1988/5)平凡社 P121,P122)

19世紀初頭前後の樺太探検

ラ・ペルーズ 1787年 到達地点:北緯51°36′
 帆船で航行。
 宗谷海峡(ラ・ペルーズ海峡)通過
 樺太・サハリンが同一であることを確認
 樺太と大陸の間は陸続きかどうか不明であるが、大型船航行不能と推測
 『ラ・ペルーズ世界航海記(1798)』 出版
ヴォ―ジャ 1787年 到達地点:北緯52°4′
 帆船からボートを出して航行。
 ラ・ペルーズの帆船通行の可否判断の為、ボートで水深を測定。
 強風と濃霧で十分な観測ができなかった

 

ブロートン 1797年  到達地点:北緯51°45′7″
 ラ・ペルーズ到達地点よりも12q程深く進行。
 その先が静かな湖状であることを確認し、樺太が地続きであると判断した。
 『北部太平洋発見航海記(1804)』出版

クルーゼンシュテルン 1806年 到達地点(北側から):北緯53°30′
 帆船で航行。
 樺太東海岸、北海岸を測定し、エリザベート岬を発見。
 その後、北側から海峡に入るが、清国と問題が起こることを恐れて、深くは入らなかった。
 水流が北行のみで、塩分濃度が低かったため、樺太は地続きと判断した。
 『世界周航記(1810-1812)』出版
松田伝十郎・間宮林蔵 1808年  到達地点:北緯51°53′40″
 主に、蝦夷船で航行。
 ノテトからラッカ岬に達し、好天に恵まれ、樺太が島であると判断した。
 大型船の通行は不可能と判断した。
間宮林蔵 1809年 到達地点:北緯53°15′
 主に山靼船で航行。
 前年に到達したノテトから5日でナニヲ―に到達。
 『北夷分界余話、東韃地方紀行(1810)』口述
注)図の線は探検家の到達位置と概略経路。
詳細な経路ではない。

 

ネヴェルスコイ 1849年
 帆船で通過する海峡内の水路を発見し、タタール海峡が船舶通航可能であることを発見した。



参考文献

間宮林蔵/述、村上貞助/編、洞富雄・谷沢尚一/編注『東韃地方紀行』 東洋文庫 484 (1998.5)
洞富雄/著『間宮林蔵』東京 吉川弘文館(1986.12)
赤羽榮一/著『未踏世界の探検者 間宮林蔵』東京 清水書院(2018.7)
中島欣也/著『幕吏松田伝十郎のカラフト探検』東京 新潮社 (1991.2)
松田伝十郎/著『北夷談 樺太探検・北方経営の先駆者 松田伝十郎の蝦夷地見聞録』新潟日報事業社(2008.4)
ラペルーズ/著『ラペルーズ世界周航記 日本近海編』 白水社(1998.2)

最終更新 2019.11


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