朝鮮銭

 朝鮮半島では、高麗時代の996年から、唐の貨幣を模した「乾元重宝」などを鋳造したが、短期間で終わっている。12世紀初頭になると、「東国通宝」「海東通宝」などの銭貨を鋳造したが、これらも、あまり普及していない。李氏朝鮮時代の1425年から鋳造された「朝鮮通宝」も、国内ではそれほど普及していないが、日本へもある程度は渡来しており、日本での発掘渡来銭の第41位になっている。

「東国通宝」 
(国立歴史民俗博物館展示品の写真)
「朝鮮通宝」
朝鮮王国建国後の1425年から鋳造された
真書体のみ





 1633年から「常平通宝」を鋳造、1679年からは大型の「常平通宝・折二」を鋳造開始した。常平通宝・折二は大量に製造されたようで、朝鮮半島での残存数は多い。
 日本では、直後に寛永通宝が発行され、渡来銭は使用停止となったため、常平通宝は日本では、ほとんど使われていない。特に、写真の大型のものは、日本で使われることはなかった。






安南銭

 安南(今のベトナム)は中国文化の影響が強い地域で、10世紀から中国と類似の形態の銭貨を鋳造している。安南銭には歴代王朝が鋳造したもののほかに、地方・私的に鋳造されたものがある。前者を「安南歴代銭」、後者を「安南手類銭」と言う。
 安南最初の歴代銭は970年の太平興宝に始まり、1945年に退位した保大帝まで続いた。

 室町時代、明からの銭貨の輸入が止まると、安南の銭貨も輸入された。ただし、発掘された渡来銭の40位以内に入っている安南銭はない。
安南最初の歴代銭「太平興宝」
970年に発行された
(国立歴史民俗博物館展示品の写真)
「紹平通宝」
1434年に即位した太宗により発行
「延寧通宝」
太宗の子、仁宗により、1454年に発行



 15世紀初頭、ベトナムは、明朝に従属していたが、黎利は明軍を破って全土統一し、1428年、黎朝を開き、国号を「大越」とした。
 1434年に、黎利が死亡すると、子供の太宗が11歳で皇帝に即位した。「紹平通宝」は太宗が即位したときに発行されたもの。
 1442年に太宗が死亡すると、子の仁宗が2歳で皇帝に即位した。仁宗即位時には「大和通宝」が発行された。1454年、延寧に改元し「延寧通宝」を発行した。




 左の写真は、安南で1740年〜鋳造された景興通宝。日本では江戸中期で寛永通宝が十分流通していたので、安南銭をあえて輸入する必要はなかったが、長崎貿易に伴った入ってきたものもあるだろう。安南銭は現地にたくさん残っているので、近年になって、収集家により輸入されたものも多い。




 左の写真は、安南で最後に発行された「保大通宝」。丸に角穴の最後の銅銭。
 1926年に即位した、保大帝により発行された。
 1880年代には、ベトナムはフランスの植民地になっていたが、王朝は植民地支配下で存続し、独自銭貨を発行していた。1940年、日本がベトナムに進駐し、日本とフランスの二重支配となる。
 1945年8月30日、保大帝は退位し、9月2日にホー・チ・ミンによりベトナム民主共和国の誕生が宣言された。
 
 「保大通宝」が発行されたのは大正から昭和と最近のことなので、日本で使われたことはない。





琉球銭

 「大世通宝」は尚泰久王の1454年ごろに鋳造された。「世高通宝」は尚徳王の1461年ごろに鋳造された。このほか、琉球王国時代には、尚円王の1470年ごろ作られた「金円世宝」がある。
 これらの銭貨は永楽通宝を模したもので、鋳造量は多くなかった。
 さらに、琉球王国以前の三山時代に作られた「中山通宝」も存在しているが、少ない。

 (国立歴史民俗博物館展示品の写真)



清朝銭

 江戸時代、寛永通宝の輸出は禁止されていたけれど、貿易に伴い、相当数の、中国流出があった。逆に、清朝の銭も日本に入ってきている。日本では、寛永通宝以外の銭の流通は禁止されていたが、寛永通宝を100枚束ねた中に、清朝銭がまぎれていることもある。


 写真は、上段左から「順治通宝」「康煕通宝」「雍正通宝」。下段左から「乾隆通宝」「嘉慶通宝」「道光通宝」。
 清朝銭は鉄を含み、磁石に付くものも多い。



 左写真は、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(宣統帝)時代の「宣統通宝」。
 明治の終わりごろなので、日本で使われたことはない。
 「宣統通宝」で、丸に角穴の中国伝統貨幣スタイルは終了した。





太平天国

 アヘン戦争後、アヘン輸入増加や賠償金支払いは、民衆にはねかえり、民衆の生活を苦しめた。このため、結社を作って、助け合い、生活を守る動きが高まった。19世紀中ごろになると、これら結社は各地で反乱を起こすようになる。なかでも、洪秀全を首班とするキリスト教徒による太平天国の乱は、窮乏農民や流民などを吸収し拡大、1853年には南京を占領した。

 コイン表面には「太平天国」   裏面には「聖宝」


三藩銭・叛徒銭
 
 清で鋳造された銭と同様に「三藩銭」も日本に渡来している。

 明朝末期、清に寝返った3人の武将、呉三桂・尚之信・耿精忠は、清朝により藩王権限を与えられ、それぞれ、雲南・広東・福建を治めた。明朝崩壊に利用した武将ではあったが、次第に、清にとって、危険な存在になりうるため、1673年、康熙帝は廃止を強行、これに対し、呉三桂らは反乱を起こした。これを三藩の乱という。反乱は徐々に劣勢となり、1678年、呉三桂は士気をあげるため、皇帝に即位して国号を周とすると宣言したが、半年ほど後に病死した。その後、孫が帝位を継いだが、1681年には敗戦により自殺し、三藩の乱は、1683年に終結した。
 三藩銭とは、これら藩王により鋳造された銭のこと。

 利用通宝は、1673年から、呉三桂が鋳造した。「利用」は年号とは関係ない。
 洪化通宝は、新たに即位した孫が1678年から鋳造したもの。「洪化」は年号。

 藩王により鋳造された銭のほかに、明朝末期の農民反乱軍により鋳造された銭もあり、こちらも三藩銭と呼ばれることがある。

 大順通宝は明朝末期・農民反乱軍の張献忠により、大順年間(1644〜1646年)成都にて鋳造された。



南明銭

 李自成が北京を陥れ、崇禎帝が自殺して明朝が滅ぶと、明朝復興運動が相次いで起こった。
 このうち、広東省・肇慶では朱由榔(桂王:明朝最後の皇帝・崇禎帝の従弟、万暦帝の孫)が、1646年、皇帝に即位し、永暦帝と称し、鄭成功らの協力を得て、広東省から広西、貴州、雲南地区を勢力下においた。しかし清軍の攻勢を受け、まもなく広西省・桂林に退いた。1650年に桂林が陥落すると各地を転々としながらも、中国西南部で抗戦を続けたが、孫可望の降清などにより、1659 年、永暦帝はビルマに逃れた。しかし、そこで捕らえられ、1662年昆明で処刑され、明の皇統は断絶した。

 鄭成功は日本人の母を持ち、長崎・平戸の生まれ。永暦帝の臣下となり、自立して福建の海上勢力を率い抗清運動を続けた。1658年には南京を攻撃するなど海上から清軍を苦しめた。鄭成功の軍は廈門・金門を本拠地としていたが、清は大陸封鎖を行い、軍の維持を不可能にした。
 台湾は鄭氏が拠点としていたところで、土地も肥沃で大軍を養うことができる地であるため、鄭成功は、1661年、台湾のオランダ人を追放し、台湾・澎湖を根拠地とした。鄭成功が翌年に死亡すると、台湾統治は息子の鄭経に引き継がれたが、1683年に清朝に降伏し、鄭氏一族による台湾統治は3代23年間で終了した。

 永暦帝は永暦通宝を発行している。永暦帝が各地を転々としたのに伴い、永暦通宝の鋳造地も多地にわたり、字体のバラエティーが多い。台湾に渡った鄭成功は、長崎に依頼して、永暦通宝を鋳造した。大陸の永暦通宝は楷書体が多いが、長崎永暦通宝は篆書体が多い。ただし、どちらにも楷書・篆書がある。

大陸で鋳造された永暦通宝(Yong Li Tong Bao)
字体のバラエティーが多い
台湾での使用を目的に、長崎で鋳造された永暦通宝
大陸の永暦通宝に比べ、不出来な鋳造が多い



遼・西夏・金

遼・西夏・金でも、年号にちなんだ銅銭が鋳造され、日本にも渡来している。

遼は西暦916年〜1125年、中国東北部に存在した契丹族の国。女真族の金に滅ぼされた。


 咸雍は1065年〜1074年に使われた遼の年号。
 遼銭は造りが稚拙で、贋物も珍しくない。
 写真はおそらく贋物。




西夏は西暦1038年〜1227年、中国東北部に存在した羌族の国。チンギスハンによって滅ぼされた。
独特の西夏文字のコインが人気だが、漢字のコインも珍しくない。西夏銭、特に西夏文字のものには、贋物が多い。

元徳は1119年〜1127年に用いられた西夏の年号。
左写真の元徳重宝は、贋物の可能性が高い。





金は西暦1115年〜1234年、中国北部に存在した女真族の国。元に滅ぼされた。

正隆は、海陵王の1156年〜1161年に用いられた金の年号。
至寧は、衛紹王の1213年に用いられた金の年号。

正隆元宝と大定通宝はそこそこある。写真の至寧元宝は贋物の可能性が高い。


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