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岩瀬忠震(いわせただなり)の墓 (岩瀬肥後守忠震)

 外国奉行。安政五カ国条約調印。

 墓所:東京都豊島区南池袋4丁目25-1 雑司ヶ谷霊園 1種1号8側

 1855年、目付として日露和親条約交渉に加わる。
 1856年、ハリスが下田に来航すると、岩瀬忠震は下田奉行・井上清直とともにハリスと会見した。1857年、ハリスが将軍家定に謁見し通商交渉を求めると、老中首座の堀田正睦は岩瀬忠震・井上清直にハリスと修好通商条約の交渉を開始させた。交渉内容に合意が得られると、堀田正睦と岩瀬忠震は上京し勅許を求めるも失敗した。1858年、井上清直・岩瀬忠震は大老・井伊直弼から、やむを得ぬ場合の調印許可を得て、勅許のないまま条約に調印した。

 1858年、外国奉行に就任し、日蘭、日露、日英、日仏修好通商条約に調印した。なお、安政五カ国条約すべてに調印しているのは岩瀬忠震だけである。

 東京都墨田区東向島3丁目5-2白髭神社には、岩瀬忠震顕彰碑が建てられている。

 雑司ヶ谷霊園の墓所は、1種1号8側の表示の脇に「岩瀬肥後守墓道」の標柱があるのでわかりやすい。

岩瀬肥後守墓道の標柱 石塔が3つ
忠震の墓、忠正の墓、岩瀬氏代々の墓
有名人の墓には案内板がある


岩瀬忠震の墓
従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓
岩瀬氏代々の墓
岩瀬氏奕世之墓
忠震の養父忠正の墓
淡順院殿正日寧大居士


注)安政五カ国条約
 安政3年8月(1856年9月)に下田に着任したハリスは、通商に後ろ向きな幕府側に対し、貿易による利益を説いて交渉を続けた結果、安政5年6月19日(1858年7月29日)、合衆国軍艦ポーハタン号上で、日米修好通商条約并税則が締結された。日米修好通商条約は全14条で、下田と箱館のほか期限付きで神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港し、江戸・大坂を開市することや、関税・領事裁判権等が定められている。
 その後、年内に、同様な条約がロシア・イギリス・フランス・オランダともに締結された。これらの条約の署名者は「永井玄蕃頭」ほか「井上信濃守」「堀織部正」「岩瀬肥後守」「津田半三郎」など。
 安政6年(1859)には、五ヶ国条約の日本語の条文『五ヶ国条約并税則』が刊行された。全五冊で古書店等で見かけることもある。

安政五カ国条約と日葡条約の調印者は次のようになっている。

日米:井上信濃守清直岩瀬肥後守忠震
    タウセンド、ハルリス
日蘭:永井玄蕃頭尚志岡部駿河守長常、岩瀬肥後守忠震
    ヤン、ヘンデリッド、ドンフルキユルシウス
日露:永井玄蕃頭尚志、井上信濃守清直、堀織部正利煕、岩瀬肥後守忠震、津田半三郎  
    グラフ、井ーミー、ブウチヤチン
日英:エルギン、エンド、キンカルデ子
    水野筑後守忠徳、永井玄蕃頭尚志、井上信濃守清直、堀織部正利煕、岩瀬肥後守忠震、津田半三郎  
日仏:水野筑後守忠徳、永井玄蕃頭尚志、井上信濃守清直、堀織部正利煕、岩瀬肥後守忠震、野々山鉦蔵
    バロン、グロス
日葡:溝口讃岐守直清、酒井隠岐守忠行、松平次郎兵衛
    キュマレイス

参考)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/285

日露修好通商条約はこちら
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/18580807J1.htm


最終更新 2019.6


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